鎌原重春
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時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 永禄元年(1558年)[1] |
死没 | 慶長11年(1606年)5月16日[1] |
戒名 | 常林院殿三叟浄寅居士[1]、義光院殿[1] |
官位 | 宮内少輔[2] |
主君 | 武田勝頼→真田昌幸→真田信之 |
氏族 | 滋野氏・鎌原氏 |
父母 | 父:鎌原重澄 |
妻 | 正室:真田昌幸の娘(真田信尹の娘で昌幸の養女)[2] |
子 | 鎌原重宗 |
鎌原 重春(かんばら しげはる)は、安土桃山時代の武将。上野吾妻郡鎌原郷の国衆で、真田氏と同じく滋野氏の一族。武田氏滅亡後は真田氏の一族衆として家臣となった[1]。
生涯
[編集]天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、武田氏に従っていた父の重澄が戦死したため、18歳で家督を継ぎ、父と同じく「宮内少輔」を名乗った[2][1]。天正10年(1582年)3月の武田征伐で武田氏が滅亡すると、まず滝川一益に従ったが、本能寺の変の後に真田家に仕えた[2]。真田昌幸の一族衆として吾妻郡経営に協力し、昌幸は弟の信尹の娘を養女とし、重春に嫁がせている[2][3]。
秀吉の沼田領裁定の後は、父の時代からの縁である岩櫃城を護っていたが、慶長11年(1606年)に死去し、家督は子の重宗が継いだ[4]。法号は常林院殿三叟浄寅居士(鎌原城跡鎌原一族墓碑銘)[1]、義光院殿(鎌原過去帳)[1]。
重春の夫人は元和5年8月1日(1619年9月8日)に死去している[3][1]。
子孫も代々の真田氏に仕えながら婚姻関係を重ね、沼田から松代に転封された頃からは重臣として扱われている。重春の玄孫の重昌は、真田信政の娘である陽明院殿の名跡を嗣いで真田苗字となり、以降は真田図書の家となって続くことになる[2][1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 464205202X。
- 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA〈新人物文庫〉、2016年1月、137-141頁。ISBN 978-4-04-601099-5。