長善寺 (前橋市)
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長善寺 | |
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長善寺 | |
所在地 | 群馬県前橋市堀越町1240 |
位置 | 北緯36度25分11.7秒 東経139度09分15.5秒 / 北緯36.419917度 東経139.154306度座標: 北緯36度25分11.7秒 東経139度09分15.5秒 / 北緯36.419917度 東経139.154306度 |
山号 | 豊国山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 平安時代末期 |
開山 | 大雲 |
開基 | 大胡太郎重俊 |
文化財 | 伝大胡太郎の墓石(前橋市指定重要文化財) |
法人番号 | 5070005000463 |
長善寺(ちょうぜんじ)は、群馬県前橋市堀越町にある曹洞宗の寺院。山号は豊国山、本尊は釈迦如来[1]。
歴史
[編集]平安時代末期、大胡太郎重俊の開基である。大胡氏は藤原秀郷を始祖とする藤姓足利氏[2]の一族である。元々は現在地から約2.5キロメートル北北東の同市滝窪町に位置していた[3]。弘治永禄年間、瑞誉和尚(橋林寺5世)の時代に現在地に移転した[1]。墓地には「大胡太郎の墓石」と呼ばれる墓がある。ただ造立年代が「貞和三年(1347年)」であることから、開基の重俊ではなく、「太郎」の通称を持つ大胡氏の別人の可能性がある[3]。当初の山号は「赤城山」だったとされる[1]。
安土桃山時代、当寺住職南江道根は豊臣秀吉と親交があり、度々大坂城に出入りしていた。そのことから、子の秀頼とも面識があり、秀頼による「豊国山」の書が残されている。ただし江戸時代は徳川将軍家に対する配慮から、豊臣家との関係を示唆するものは憚られた。明治以降になって、山号は「豊国山」に復し、住職の苗字も豊臣家に因み「豊国」となった[3]。
明治6年(1873年)開校した大胡学校(現・前橋市立大胡小学校)は、当初本応寺を仮校舎としたが手狭となったため翌明治7年3月から長善寺に移り、明治12年10月に新校舎が落成するまで授業が行われた[4]。
太平洋戦争中は王子豊川国民学校(現・北区立豊川小学校)の児童職員の集団疎開の受け入れを行った[5]。
当寺出身の著名人として豊国覚堂がいる。覚堂は当寺第27世[6]住職であり、1913年(大正2年)に上毛郷土史研究会を結成するなど郷土史家として活躍した[3][1]。
文化財
[編集]交通アクセス
[編集]- 大胡駅より徒歩16分。
周辺
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年
- 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎『大胡町誌』1976年6月15日(原著1976年6月15日)。doi:10.24484/sitereports.99955。 NCID BN03614004 。