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長善寺 (前橋市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長善寺
長善寺
所在地 群馬県前橋市堀越町1240
位置 北緯36度25分11.7秒 東経139度09分15.5秒 / 北緯36.419917度 東経139.154306度 / 36.419917; 139.154306座標: 北緯36度25分11.7秒 東経139度09分15.5秒 / 北緯36.419917度 東経139.154306度 / 36.419917; 139.154306
山号 豊国山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 平安時代末期
開山 大雲
開基 大胡太郎重俊
文化財 伝大胡太郎の墓石(前橋市指定重要文化財)
法人番号 5070005000463 ウィキデータを編集
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長善寺(ちょうぜんじ)は、群馬県前橋市堀越町にある曹洞宗寺院。山号は豊国山、本尊は釈迦如来[1]

歴史

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平安時代末期、大胡太郎重俊の開基である。大胡氏藤原秀郷を始祖とする藤姓足利氏[2]の一族である。元々は現在地から約2.5キロメートル北北東の同市滝窪町に位置していた[3]弘治永禄年間、瑞誉和尚(橋林寺5世)の時代に現在地に移転した[1]墓地には「大胡太郎の墓石」と呼ばれる墓がある。ただ造立年代が「貞和三年(1347年)」であることから、開基の重俊ではなく、「太郎」の通称を持つ大胡氏の別人の可能性がある[3]。当初の山号は「赤城山」だったとされる[1]

安土桃山時代、当寺住職南江道根は豊臣秀吉と親交があり、度々大坂城に出入りしていた。そのことから、子の秀頼とも面識があり、秀頼による「豊国山」の書が残されている。ただし江戸時代徳川将軍家に対する配慮から、豊臣家との関係を示唆するものは憚られた。明治以降になって、山号は「豊国山」に復し、住職の苗字も豊臣家に因み「豊国」となった[3]

明治6年(1873年)開校した大胡学校(現・前橋市立大胡小学校)は、当初本応寺を仮校舎としたが手狭となったため翌明治7年3月から長善寺に移り、明治12年10月に新校舎が落成するまで授業が行われた[4]

太平洋戦争中は王子豊川国民学校(現・北区立豊川小学校)の児童職員の集団疎開の受け入れを行った[5]

当寺出身の著名人として豊国覚堂がいる。覚堂は当寺第27世[6]住職であり、1913年大正2年)に上毛郷土史研究会を結成するなど郷土史家として活躍した[3][1]

文化財

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伝大胡太郎の墓

前橋市指定重要文化財

  • 伝大胡太郎の墓石(昭和50年7月1日指定[7]) - 「貞和三年三月廿二日」の銘がある異形多宝石塔。滝窪から移転した際に運んできたものと伝わる[8]

交通アクセス

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周辺

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脚注

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  1. ^ a b c d 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎 1976, pp. 1074–1076.
  2. ^ 足利将軍家を輩出した源姓足利氏とは別系統
  3. ^ a b c d 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年、56-58p
  4. ^ 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎 1976, pp. 882–888.
  5. ^ 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎 1976, p. 798.
  6. ^ 『大胡町誌』では26世
  7. ^ 市指定文化財一覧前橋市
  8. ^ 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎 1976, pp. 234, 1074–1076.

参考文献

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  • 稲葉博 著『関東古社名刹の旅2(群馬・栃木・茨城編)』読売新聞社、1987年
  • 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎『大胡町誌』1976年6月15日(原著1976年6月15日)。doi:10.24484/sitereports.99955NCID BN03614004https://sitereports.nabunken.go.jp/99955