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長塩正家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長塩正家
時代 江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 万治元年11月4日1658年11月28日
別名 又左衛門[1]
戒名 塩月院空嶺全長[2]
墓所 東京都福生市熊川の福生院[3]
主君 徳川家康秀忠
氏族 長塩氏
父母 長塩正舎[2](長塩作兵衛[1]
大屋氏[1]
正次[1]
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長塩 正家(ながしお まさいえ)は、江戸時代前期の武士江戸幕府旗本

生涯

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長塩家は甲斐武田家の旧臣であった家で、正家の祖父の長塩正平(主水)が武田信玄・勝頼に仕えたのち徳川家康の家臣になったという[1]。正家は徳川家康秀忠に仕えて大番を務め、常陸国鹿島郡にて350石を知行する[1]寛永10年(1633年2月7日武蔵国多摩男衾榛沢賀美郡内にて200石を加えられ、知行高は合計550石となる[1][注釈 1]

万治元年(1658年)11月4日、60歳で没[1]。墓所は東京都福生市熊川にある福生院にある[3][注釈 2]。長塩家の墓塔である五輪塔は、福生市の史跡に指定されている[3]

系譜

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旗本長塩家の祖先について、『寛永諸家系図伝』では尾張国丹羽氏の支族とし、足利義満に仕えた長塩家次(兵衛五郎)との関係も示唆されている[1]。しかし『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜では藤姓足利氏の流れを汲むと主張している[1]

長塩家の知行地支配

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熊川の「鍋ヶ谷戸」一帯は、正家以来、明治元年(1868年)まで長塩家の知行地であった[3][注釈 3]。地域には、領主の長塩家が水不足に悩む村人たちために掘って与えたという「伝 地頭井戸」(福生市登録文化財)などの史跡が残る[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ より細かくは、常陸国鹿島郡当間村(茨城県鉾田町)、武蔵国多摩郡熊川村(東京都福生市)、同男衾郡板井村(埼玉県江南町)、榛沢郡用土村(埼玉県寄居町)、賀美郡金窪村(埼玉県上里町)の5か村[4]
  2. ^ 『寛政譜』では熊川の「普門寺」に葬るとある[1]。普門寺は現在の秋川市野辺にある寺で、福生院の本寺であった[5]
  3. ^ 熊川村自体は、旗本長塩家・旗本田沢家・幕府領の相給(三給)であり[6]、長塩家は村高493石余のうち118石を知行していた[7]。なお、田沢家も武田旧臣である[8]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 寛政重修諸家譜』巻第六百七十七「長塩」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.599、『新訂寛政重修諸家譜 11』p.183。
  2. ^ a b 『福生市史 上巻』p.441
  3. ^ a b c d 長塩正家(ながしおまさいえ) -鍋ヶ谷戸を知行した旗本長塩氏-”. 福生市郷土資料室 (2017年2月10日). 2022年8月16日閲覧。
  4. ^ 『福生市史 上巻』p.445
  5. ^ 『福生市史 上巻』p.358
  6. ^ 『福生市史 上巻』p.357
  7. ^ 『福生市史 上巻』p.368
  8. ^ 『福生市史 上巻』pp.357-358
  9. ^ ふっさんぽ『熊川分水巡りルート』のご案内”. 福生市観光案内所. 2022年8月16日閲覧。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第六百七十七「長塩」
    • 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082713/308
    • 『新訂寛政重修諸家譜 11』(続群書類従完成会、1965年)
  • 福生市史編さん委員会 編『福生市史 上巻』(福生市、1993年)