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長尾駿郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長尾 駿郎(ながお としろう[1]1866年4月13日(慶応2年2月28日[2][3]) - 1918年大正7年)2月17日[2][3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・浅井。

経歴

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紀伊国(現和歌山県)出身[2][3][4]。浅井右馬之丞の二男として生まれ、長尾勝賦の養子となる[2]。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業して[3]砲兵少尉に任官し野砲兵第4連隊付となる[1][2][5]。1893年(明治26年)11月、陸軍砲工学校を卒業[2]

1895年(明治28年)4月から12月まで日清戦争に出征[2]。この間、同年10月、砲兵大尉に昇進し[1]、野砲兵第4連隊中隊長に就任した[2]。1901年(明治34年)2月、ドイツ駐在となり、1902年(明治35年)4月、砲兵少佐に進級した[1][2]。1904年(明治37年)3月、参謀本部付(スウェーデン駐在)となり、1905年(明治38年)5月、砲兵中佐に進んだ[1][2]。同年12月に帰国した[2]陸軍野戦砲兵射撃学校教官を経て、1910年(明治43年)3月、野砲兵第15連隊長に就任[6][注 1]。1911年(明治44年)9月、砲兵大佐に昇進[1][2][4]

1911年10月、教育総監部庶務課長に転じた[1][2][4]。1913年(大正2年)8月、野戦砲兵射撃学校長に就任[2][4]。1916年(大正5年)8月、陸軍少将に進級し野砲兵第2旅団長に就任したが、1918年(大正7年)2月に死去した[2][3][4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版(116頁)、『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』(90頁)では基隆要塞司令官に就任とあるが、『官報』第8011号(明治43年3月10日)では江藤鋪陸軍少将が同要塞司令官に発令されているので誤りである。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治45年7月1日調』820頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、116頁。
  3. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』506頁。
  4. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』90-91頁。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』87、90-91頁。
  6. ^ 『官報』第8011号、明治43年3月10日。

参考文献

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  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治45年7月1日調』川流堂、1912年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。