コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

長島勤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長島 勤
生誕 1888年2月29日
日本の旗 日本 埼玉県
死没 (1960-06-18) 1960年6月18日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

長島 勤(ながしま きん、1888年明治21年)2月29日[1] - 1960年昭和35年)6月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

[編集]

1888年(明治21年)に埼玉県で生まれた[1]陸軍士官学校第22期卒業[1]1937年(昭和12年)11月に陸軍歩兵大佐に進級し[2]1938年(昭和13年)12月に蘇州特務機関長に就任し[2]1939年(昭和14年)9月に第13軍司令部附となった[2]1940年(昭和15年)1月に豊橋連隊区司令官に転じた[2]

1942年(昭和17年)4月15日に新規編制された歩兵第54旅団長(第12軍第59師団)に就任し[1]、中国戦線に復帰[1]。同年8月1日に陸軍少将に進級[2]。北支では済南を根拠地として同地の防衛・治安維持に就いた[1]。その後第59師団は関東軍第34軍隷下に編入され[1]、終戦時は咸興に位置した[1]

戦後はシベリア抑留となる[3]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]1950年(昭和25年)7月に綏芬河でソ連から中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収容された[3][5]。戦犯管理所では「学習反省」「認罪坦白」などを行い[6]1956年(昭和31年)6月に開かれた瀋陽特別軍事法廷で懲役16年の判決を受けたが[7]、満期前の1959年(昭和34年)末に釈放された[7]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 福川 2001, 515頁.
  2. ^ a b c d e 外山 1981, 287頁.
  3. ^ a b 大澤 2016, 45頁.
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」211頁。
  5. ^ 大澤 2016, 46頁.
  6. ^ 大澤 2016, 59頁.
  7. ^ a b 大澤 2016, 151頁.

参考文献

[編集]
  • 大澤武司 著『毛沢東の対日戦犯裁判 : 中国共産党の思惑と1526名の日本人』中央公論新社、2016年。ISBN 4121024060 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026