茂木町 (長崎県)
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(長崎市茂木町から転送)
もぎまち 茂木町 | |
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廃止日 | 1962年1月1日 |
廃止理由 |
編入合併 茂木町、式見村 → 長崎市 |
現在の自治体 | 長崎市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 長崎県 |
郡 | 西彼杵郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
13,883人 (国勢調査、1960年) |
隣接自治体 | 長崎市、西彼杵郡三和町 |
茂木町役場 | |
所在地 | 長崎県西彼杵郡茂木町本郷165番地 |
座標 | 北緯32度42分25秒 東経129度54分30秒 / 北緯32.70706度 東経129.90844度座標: 北緯32度42分25秒 東経129度54分30秒 / 北緯32.70706度 東経129.90844度 |
ウィキプロジェクト |
茂木町(もぎまち)は長崎県西彼杵郡の南部、長崎半島にあった町。1962年(昭和37年)に式見村とともに長崎市に編入された。
現在の長崎市茂木地区にあたる。
地理
[編集]野母半島(長崎半島)北部に位置し、南東の海岸線を橘湾に接する。
歴史
[編集]当地は古くは「裳着」と表記された。これは神功皇后が三韓征伐の際に当地を訪れ、裳を着替えた事が由来とされる[1][2]。後に読みやすいよう「茂木」と表記するようになったと伝えられているが、表記が変わった年代の詳細は判っていない[1][2]。
- 古代から江戸時代まで
- 994年(正暦5年)- 大村直澄の領地となる。
- 1580年(天正8年)- 領主大村純忠が長崎村と茂木村をイエズス会に寄進。
- 1587年(天正15年)- 豊臣秀吉、イエズス会より長崎村と茂木村を没収。
- 1614年(慶長19年)- 徳川幕府領となる。
- 1616年(元和2年)- 松倉豊後守重政が大坂夏の陣での功績により、大和五条藩から肥前島原藩に転封され、茂木を領地とする。
- 1638年(寛永15年)- 島原の乱の後、高力摂津守忠房が遠江浜松藩から島原藩に転封され、茂木を領地とする。
- 1668年(寛文8年)- 幕府領となり、長崎代官の管轄下に庄屋を設置。
- 1720年(享保5年)- 島原藩領となる。
- 1768年(明和5年)- 長崎高木作右衛門忠興(8代目)が長崎代官となり、その所領となる。
- 1833年(天保4年)- 千々名藤田尾と佐賀藩領為石村の境を協定。(1837年(天保8年)まで)
- 明治以降
- 1872年(明治5年)- 大区小区制の施行により、長崎県高来郡第二区第七小区に編入される。
- 1874年(明治7年)- 深堀、高浜、野母、脇岬、樺島、川原、為石、布巻を含めて一大区となる。
- 1878年(明治11年)- 一大区が八ヶ村に分離する。
- 1879年(明治12年)7月 - 郡区町村編制法施行により、西彼杵郡の管轄となる。
- 1889年(明治22年)4月 - 町村制施行により、西彼杵郡茂木村が単独村制にて発足。村役場を本郷字片町(現・東長崎商工会茂木支所の敷地)に設置。
- 1898年(明治31年)10月1日 - 古賀浦名・小崎名を日見村に編入。
- 1919年(大正8年)10月1日 - 町制施行し、茂木町となる。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 藤田尾名(とうだお)を為石村に編入。
- 1962年(昭和37年)1月1日 - 式見村とともに長崎市に編入し、自治体として消滅。
地名
[編集]名または郷を行政区域とする。茂木町は1889年の町村制施行時に単独で自治体として発足したため、大字は無し。(発足当初は茂木村)
- 飯香浦名(いかのうら)
- 大崎名
- 太田尾名
- 北浦名
古賀浦名- 1898年、日見村に編入。小崎名- 1898年、日見村に編入。- 木場名(こば)
- 田上名
- 田手原名(たでわら)
- 千々名(ちぢ)
藤田尾名(とうだお)- 1947年、為石村に編入。- 本郷
- 宮摺名
交通
[編集]産業
[編集]農業を主産業とし、特にビワの栽培が盛んに行われている[3]。
名所・旧跡
[編集]参考文献
[編集]- 『角川日本地名大辞典』 42 長崎県
- 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。
- 西彼杵郡現勢一班「茂木村現勢概要」(1926年)国立国会図書館デジタルコレクション
- 長崎市役所茂木支所 編『茂木をたずねて』2012年、長崎市役所ウェブサイト
- 茂木のあゆみ (PDF)
- 茂木の散歩道 (PDF)
- 古写真をたずねて-懐かしい写真- (PDF)
- 茂木地区年表 (PDF)