長帥
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長帥(ちょうすい、朝鮮語: 장수)は、朝鮮三韓の一つである馬韓の酋長[1]。
概要
[編集]百済は、かつての三韓のうち、馬韓に属した伯済国をその前身とするが、辰韓、弁韓がそれぞれ12国からなっていたのに対し、馬韓は55国からなり、また辰韓、弁韓の大国が4000家から5000家、小国が600家から700家であったのに対し、馬韓では大国は万余家、小国でも数千家を有したといい、まさに三韓のうち「馬韓最大」であった[2]。この馬韓の各々国には長帥がおり、その大なるものは臣智と自称し、他に邑借と称すものもあった。伯済国も最低数千家からなり、臣智、邑借の支配がおこなわれていたであろうが[2]、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[3]。
脚注
[編集]- ^ 橋本増吉 編『朝鮮』雄山閣〈物語東洋史 第11巻〉、1937年、9頁。
- ^ a b 坂元義種『古代東アジアの<大王>について : 百済大王考補論』京都府立大学学術報告委員会〈京都府立大學學術報告 20〉、1968年10月25日、36頁。
- ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、18頁。ISBN 978-4000029032。「一方、半島南部には、韓族の馬韓五十余国、辰韓十二国、弁韓十二国の諸小国群が分立していた。馬韓諸国の首長層のうち、大きいものは臣智と称し、次のものを邑借といった。また弁辰の諸小国でも、首長層は各種の称号をもっていて、その最大のものはやはり臣智と称していた。この臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣にほかならず、それを諸国の首長の立場から表現したものであった。つまり、臣智の称号は、韓族の首長層の楽浪・帯方郡との関係のなかで発生したのであって、それ自体が楽浪・帯方郡と韓族諸小国との関係を物語る称号なのである。」