長谷川晃一
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。
来歴・人物
[編集]1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。1929年6月、修了する。同年9月、ニューヨーク市政調査会の臨時調査員となる。1931年12月、調査員を辞して帰国する。[1]
1932年1月、大阪市電気局高速鉄道部に勤務し、同年4月から大阪YMCA英語学校講師を兼ねる。1935年3月、大阪市電気局高速鉄道部を辞職し、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの大阪支店に勤務する。1939年3月、大阪YMCA英語学校講師を辞職する。1940年4月、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークを辞職し、昭和通商に勤務する。1942年4月、昭南支店に転勤する。1943年11月、昭南支店長・クアラルンプール支店長となる。[1]
1946年5月、早稲田大学政治経済学部臨時講師となる。1953年5月、第一・第二政治経済学部専任講師となる。[1]
1954年5月2日から5月4日まで、赤坂離宮・羽衣の間において行われた「国連未加盟国会議」にて第一委員会書記になる[2][注釈 1]。同年11月1日から11月5日まで、明治神宮外苑の日本青年館において行われた「第2回世界連邦アジア会議」にて第三委員会書記となる[3][注釈 2]。1958年10月1日、大隈講堂および千代田公会堂において行われたコムラ・アグベリ・グベデマ(英語: Komla Agbeli Gbedemah)(世界連邦主義者世界協会4代目会長)の講演会の通訳、交渉を取り仕切る[4]。
1967年4月25日午前11時28分、早稲田大学において英作文の講義中、心筋梗塞で倒れ死去する。享年64歳。4月28日に葬儀と告別式が行われる。[5][6][7][8]
著作
[編集]著書
[編集]共著
[編集]- Luther Gulick; Kōichi Hasegawa (1932). Modern Government in a Colonial City. Jonathan Cape and Harrison Smith
- 海江田進、長谷川晃一『現代英語の文法』学生社、1955年。
翻訳・注釈
[編集]- ジョン・F・ポーター『イラン』現代文庫、1954年。
- 『The Idea of Man』南雲堂、1957年。
- 『Today and Tomorrow』文真堂、1959年。
- 『Today and Tomorrow Ⅱ』文真堂、1960年。
- 『The Bill of rights』南雲堂、1960年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 略年譜業績 1967, p. 195.
- ^ a b 世界連邦建設同盟 1969, p. 168.
- ^ a b 世界連邦建設同盟 1969, p. 172.
- ^ 世界連邦建設同盟 1969, p. 222.
- ^ 「訃報」『早稲田学報』第771号、早稲田大学校友会、1967年5月15日、60頁。
- ^ 「長谷川 晃一氏(早稲田大学教授)」『朝日新聞』1967年4月26日、15面。
- ^ 「長谷川晃一氏(早大第一政経学部教授)」『読売新聞』1967年4月26日、15面。
- ^ 「長谷川 晃一氏(早稲田大学政経学部教授)」『毎日新聞』1967年4月26日、15面。
参考文献
[編集]- 「故長谷川晃一教授略年譜業績」『教養諸学研究』第26号、早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会、1967年6月20日、195-197頁、NAID 40000751360。
- 『世界連邦運動20年史』世界連邦建設同盟、1969年5月1日。 NCID BN08091344。