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長谷川橋介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長谷川 橋介(はせがわ きょうすけ、? - 元亀3年12月22日1573年1月25日))は、戦国時代の武将。長谷川与次の弟であり、長谷川秀一の叔父に当たる[1]通称は右近。

生涯

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織田信長小姓として仕えた。天文21年(1552年)、信長が山口教吉と戦った赤塚の戦いでは、先陣の足軽として参加[2]永禄年間の初めには赤母衣衆に入っている[3]

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長が夜明けに行軍を開始した当初、岩室重休佐脇良之山口飛騨守加藤弥三郎とともにわずか5人で従った[4]。永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、佐脇らと共に尺限廻番衆となる[5]

その後、信長より不興を買い、佐脇・山口・加藤と織田家を出奔、ともに徳川家康のもとに身を寄せた。その際の待遇は不明であるが、元亀3年12月22日1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いに参戦し、佐脇、山口・加藤とともに討死した[6]

なお、『甫庵信長記』では、信長が弟信行(信勝)を謀殺した際、初めに斬りつけた3人のうちの1人となっているが、『信長公記』にはその記載はなく定かではない[7]。これを誤りと推測する見解もある[8]

子の四郎左衛門は尾張に戻り、長谷川秀一に仕えたという[9]

登場作品

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小説

脚注

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  1. ^ 『張州雑志』
  2. ^ 太田牛一信長公記』 巻首 「三の山赤塚合戦の事」
  3. ^ 高木文書。長谷川橋の字で記載。
  4. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」
  5. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」(池田家本)。町田本には記載なし。
  6. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「味方か原合戦の事」
  7. ^ 『甫庵信長記』では、山口飛騨守・長谷川橋介・川尻青貝の3人がまず斬りつけ、信行が土田御前のいる方へ逃げようとしたところを、池田恒興が捕らえてとどめをさしたことになっている。しかし、信頼性の高いとされる『信長公記』では河尻青貝とのみあり、これは河尻秀隆と青貝(不詳)の2名と考えられている。
  8. ^ 「長谷川橋介」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、357-358頁。ISBN 9784642014571 
  9. ^ 士林泝洄