長野県長野商業高等学校
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長野県長野商業高等学校 | |
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北緯36度39分20.40秒 東経138度10分32.10秒 / 北緯36.6556667度 東経138.1755833度座標: 北緯36度39分20.40秒 東経138度10分32.10秒 / 北緯36.6556667度 東経138.1755833度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長野県 |
設立年月日 |
1900年6月11日 (長野市立乙種商業学校) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 |
全日制課程 定時制課程 |
単位制・学年制 |
学年制(全日制) 単位制(定時制) |
設置学科 |
商業科、会計科(全日制) 普通科(定時制) |
学校コード | D120220100055 |
高校コード | 20115E |
所在地 | 〒380-0872 |
長野県長野市妻科243番地 | |
外部リンク |
公式サイト(全日制) 公式サイト(定時制) |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
長野県長野商業高等学校(ながのけんながのしょうぎょうこうとうがっこう)は、長野県長野市に在る県立商業高等学校。通称、長商(ちょうしょう)と呼ばれている。
概観
[編集]1900年に開校。商業学習の実践的な活動として、模擬株式会社「長商デパート」を開催している。 野球部は甲子園へ11回出場(春3回、夏8回)し、最高戦績はベスト4。
教育目標
[編集]- より高い教養と、より専門的な知識・技術の習得を目指し、自ら学び積極的に物事に取り組む意欲のある生徒の育成。
- サービス経済化・国際化の進展に伴い、社会の変化に主体的に対応できる能力の育成。
- 誠実・努力をモットーに実践力のある生徒の育成。
- 規律・礼儀等の基本的生活習慣を確立し、学生らしいエチケットを身につけた生徒の育成。
沿革
[編集]- 1900年(明治33年)6月11日 - 長野市立乙種商業学校として開校。
- 1901年(明治34年)9月10日 - 長野市立甲種商業学校へ転換。
- 1902年(明治35年)9月 - 長商デパートの前身、第1回物品販売を開催。
- 1913年(大正2年)3月26日 - 長野市立長野商業学校と改称。
- 1922年(大正11年)4月1日 - 長野県へ移管。長野県長野商業学校となる。
- 1931年(昭和6年) - 模擬株式会社長商デパートを開始。
- 1944年(昭和19年)4月6日 - 長野女子商業学校が開校。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、長野県長野商業学校が、長野県長野商業高等学校となり、長野女子商業学校を併合。商業科を設置。
- 1999年(平成11年)3月31日 - 定時制商業科を閉科。
- 2000年(平成12年)11月18日 - 長商 創立100周年記念式典。
- 2001年(平成13年)4月1日 - 会計科を設置。
- 2010年(平成22年)11月20日 - 創立110周年記念式典。
定時制
[編集]- 定時制は単位制であり、学年がない。自らの能力に合わせて、自ら授業を選ぶことができる。転入学・編入学してくる生徒も多い。
基礎データ
[編集]校章
[編集]- 二重桜に『商』の文字。
校歌・応援歌
[編集](作詞作曲:小池雄治)
アクセス
[編集]歴代校長
[編集]- 丸山弁三郎 - 1914年から1922年の間、校長を務めた。後に第5代長野市長,衆議院議員(1期)を務め、衆院議員時代の1940年2月には斎藤隆夫の反軍演説に際して、斎藤を除名しようとした決議で反対票を入れた7人の議員のうちの1人となった。
著名な出身者
[編集]- 青木拡憲 - 実業家、AOKIホールディングス(紳士服の青木)創業者
- 太田美知彦 - 作曲家
- 綿内克幸 - シンガーソングライター
- 北野次登 - 北野建設最高顧問
- 古今亭菊春 - 落語家
- 小林尊 - フードファイター
- 坂井良多 - お笑い芸人(鬼越トマホークメンバー)
- 土肥省三 - 元プロ野球選手
- 宮崎仁郎 - 元プロ野球選手
- 加藤智男 - 元プロ野球選手
- 水野忠彦 - 元プロ野球選手
- 金子千尋 - 元プロ野球選手(オリックスバファローズ→北海道日本ハムファイターズ)
- 大関さおり - モデル
- 岡田伊津美 - 女子プロゴルファー(JLPGA)
- 十味 - グラビアアイドル