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長髄彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長髄彦
時代 上古
生誕 不明
死没 神武天皇即位前
別名 登美能那賀須泥毘古、登美毘古、那賀須泥毘古、鳥見彦 等
主君 饒速日命
兄弟 妹:登美夜毘売
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長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武東征)に敗れた。

概要

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日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。

『古事記』では特に討伐の場面もなく主君の邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が神武天皇に服属したとするが、『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命(邇芸速日命)の手によって殺されたとされる。

先代旧事本紀』では神武天皇が紀伊半島を迂回し長髄彦と再び対峙した頃には、既に饒速日命は亡くなっており、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が天孫(神武天皇)への帰順を諭しても聞かなかったため殺したとする。

なお、長髄とは『日本書紀』ではの名であるとされている。

神話での内容

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登美夜毘売(とみやびめ)、あるいは三炊屋媛(みかしきやひめ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨し、その後大和国の鳥見の白庭山に移った饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻とし、仕えるようになる。

神武天皇浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の彦五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後、八十梟帥兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。『日本書紀』神武紀には、この時の様子を次のように記している。

皇師みいくさ遂に長髄彦をつ。しきりに戦ひて取勝つことあたはず。時に忽然たちまちにしてけて雨氷ひさめふる。乃ち金色こがねあやしきとび有りて、飛び来りて皇弓みゆみはずに止れり。其のとびひか曄煜てりかかやきて、かたち流電いなびかりの如し。是に由りて、長髄彦が軍卒いくさのひとども、皆迷ひまぎえて、またきはめ戦はず。長髄ながすねこれむらもとなり。因りてまた以て人の名とす。皇軍みいくさの、鵄のみつを得るに乃りて、時人ときのひとりて鵄邑とびのむらなづく。今鳥見とみと云ふは、これよこなばれるなり。 — 岩波日本古典文学大系

ここに長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇のに由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べ、主君が天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と步靫(かちゆき)を見せた。天皇が同じ物を見せると長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命に殺された。

中世の伝説

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曽我物語』等では安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。また中世の武将の安藤氏(後の子爵秋田家)が長髄彦の子孫であると自称した。

一説

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添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近に勢力を持った豪族という説がある。生駒市白庭台の住宅地に長髄彦の本拠地があった場所とされる碑が建っている。

『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』のいずれにも父祖の記載はなく、系譜は不明である。

添御県坐神社(奈良市三碓3丁目)八木尚宏宮司が平成21年に同神社宮司着任時に氏子総代会長より地元の伝承として、下記の事を伝えられた。[1]

  • 神社の本当の祭神は、長髄彦である。地域の支配者長髄彦は侵略者イワレビコ(神武天皇即位前)に敗れて自決し、地元民が御霊を祀る祠をつくり、これが神社のはじまりである[2]
  • 明治維新を迎え、氏子が逆賊が祭神であることをはばかり学者に相談し、その助言により武乳速之命(別名、天児屋命。春日神4柱の1柱)を祭神とすることにした。

脚註

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関連項目

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