中臣間人老
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中臣間人 老(なかとみのはしひと の おゆ、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。姓は連[1]、後に宿禰の姓を賜る[1]。冠位は小乙下。
出自
[編集]間人氏(間人連・間人宿禰)は、仲哀天皇の皇子である誉屋別皇子の後裔と[2]、神魂命の五世孫である玉櫛比古命の後裔[3]の二系統がある。老は中臣氏との複姓(中臣間人)であることから、後者の系統で中臣氏の一族である天神系氏族と想定される。氏の呼称の間人は部民の一種で、間人連はその伴造氏族とみられる[4]。天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、 間人氏は連姓から宿禰姓に改姓した[1][5]。
経歴
[編集]白雉5年(654年)2月に第三次遣唐使の判官として[1]、押使・高向史玄理、大使・河辺臣麻呂、副使・薬師恵日らとともに、2隻の船に分乗して日本を出航する。数ヶ月かけて新羅道(北路)を通って萊州に上陸し、長安に到着して唐の高宗に拝謁した[6]。その後、この遣唐使は斉明天皇元年(655年)8月に帰還している[1][7]。
舒明天皇が宇智の野(現在の奈良県五條市)で狩猟をした際に、中皇命の命を受けて老が献上したと伝えられる和歌2首が『万葉集』に採録されている[1][8]。この和歌は代作と言い得るものであり、老の歌であると同時に中皇命の歌であると指摘される[1]。