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間崎哲馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
間崎則弘から転送)
 
間崎 哲馬
時代 江戸時代幕末
生誕 天保5年(1834年
死没 文久3年6月8日1863年7月23日
改名 名:則弘、号:滄浪(そうろう)
官位従四位
土佐藩
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間崎 哲馬(まさき てつま)は幕末土佐藩士。哲馬は通称で、名を則弘という。

来歴

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生い立ち

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江戸で安積艮斎の私塾に学び、清河八郎などとも親交があった。

高知へ戻ってからは、土佐藩が設営した田野学館などで教鞭をとる。その後、教え子の弟から借金を返済しないことで訴訟を起こされ、役職を追われる。高知城下の江の口村に私塾を構える。教え子には中岡慎太郎吉村虎太郎などがいる。

土佐勤王党に参加

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その後土佐勤王党に参加。中核人物として活躍し、武市瑞山から最も重用された存在の一人。

間崎は、文久2年(1862年)頃、既に土佐藩上士勤王派の重鎮・乾退助(板垣退助)と好誼を結んでいた。文久2年9月17日(太陽暦11月8日)に間崎が乾退助へ送った書簡が現存する[1]

愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣

(文久2年)九月十七日 間崎哲馬

乾退助様

書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密文書を退助のもとへ直接送ったと考えられている。

青蓮院宮令旨事件

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間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎弘瀬健太と共に責任をとって切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となる。享年30。

辞世の句:守る人の有るか無きかは白露のおき別れにし撫子の花。 — 間崎滄浪

その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる[1]

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]

参考文献

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  1. ^ a b 『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月5日閲覧。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6