間部詮功
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時代 | 江戸時代後期から明治時代 |
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生誕 | 安政元年(1854年)? |
死没 | 明治23年(1890年)11月14日 |
改名 | 横山錠蔵→間部詮功 |
別名 | 篤志郎(篤四郎)、式部 |
氏族 | 横山氏→間部氏 |
父母 |
父:横山錞三郎、 養父:間部詮論 |
子 | 耨多(1902年3月17日没)、清吉(長男) |
間部 詮功(まなべ あきよし)は、明治時代の士族。旗本本所間部家最後の当主。初めは横山 錠蔵と名乗った。
安政元年(1854年)、寄合・横山錞三郎の五男として生まれる。本所間部家当主・間部詮論の養子に入り、明治2年(1869年)8月、家督と遺領を継ぐ。同年2月には明治政府から総髪にすることを許された[1]。明治3年(1870年)1月、前当主・詮論の代で明治政府に本領安堵されていたすべての知行所が上知され[2]、詮功は士族に編入された。これによって、旗本としての本所間部家は消滅した。
明治4年(1871年)10月、詮功は帰農し平民になる。この時、東京府から禄高5か年分の一時賜金を下付されたが、本所松井町にあった屋敷は上知された[3]。明治23年(1890年)11月、死去[4]。
脚注
[編集]- ^ 神奈川県企画調査部県史編纂室 1976, p. 263.
- ^ 仲田正之 & 2002年, p. 31.
- ^ 伊勢原市編纂委員会 & 2002年, p. 555.
- ^ “間部詮勝”. 2016年2月20日閲覧。
参考文献
[編集]- 伊勢原市史編纂委員会編『伊勢原市史』資料編近世1、伊勢原市、1992年。
- 神奈川県企画調査部県史編纂室編『神奈川県史』資料編8近世(5上)、財団法人神奈川県弘済会、1976年。
- 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」(『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』)亜紀書房、1998年。
- 仲田正之「明治に残る元禄地方直しの影「朝臣領」―封建制度の終焉について―」『駒沢史学』59号、駒沢史学会、2002年