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関向応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
关向应

関 向応(かん こうおう、簡体字中国語: 关向应拼音: Guān Xiàngyīng、グァン・シアンイン、1902年9月10日-1946年7月21日)は、中国の政治家、八路軍幹部。本来の名前は関致祥、またの名を応禀。満州族遼寧省金県(現在の大連市金州区)大関家屯の出身。1946年に延安で病死した。

略年譜

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  • 1904年9月18日、遼寧省金県大関家屯で出生[1]
  • 1924年4月、中国社会主義青年団に加入し、ソ連モスクワへ留学。
  • 1925年1月、中国共産党に入党。
  • 1928年7月、共青団中央書記になる。
  • 1931年、上海国民党により逮捕される。
  • 1935年、紅2、6軍団を指揮し長征。
  • 1936年12月、第2方面軍政治委員﹑中央革命軍事委員会委員となる。
  • 1938年12月、賀龍と120師を率いて中(河北省)へ赴き、冀中区総指揮部政治委員。
  • 1945年、中共第7次全国代表大会で中共中央委員に当選。
  • 1946年7月、延安で病死。

記念事業

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大連・金州が生んだ偉人として、生家等が観光地として整備されている。

  • 関向応記念館(大連市金州区向応鎮関家村大関屯)
  • 向応広場(大連市金州区)
  • 向応像(大連市金州区向応広場)
  • 向応公園(大連市金州区)

脚注

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  1. ^ 政治工作领导人和优秀指挥员――关向应--中国共产党新闻--人民网 - ウェイバックマシン(2015年9月22日アーカイブ分)(簡体字中国語)(政治工作指導者であり優秀な指揮官――関向応) - 中国共産党新聞ネットワーク中国語版