閻沢溥
閻 沢溥 | |
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プロフィール | |
出生: | 1879年(清光緒5年) |
死去: | 不詳[注 1] |
出身地: | 清直隷省天津府天津県 |
職業: | 政治家・銀行家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 閻澤溥 |
簡体字: | 阎泽溥 |
拼音: | Yán Zépǔ |
ラテン字: | Yen Tze-p'u |
和名表記: | えん たくふ |
発音転記: | イエン ゾープー |
閻 沢溥(えん たくふ、1879年 - 没年不詳)は、中華民国の政治家・銀行家・実業家。字は庭瑞。
事績
[編集]最初は、洮南屯墾局総弁を務めた[1][2]。後に張作霖の奉天派に属し、吉林黒竜江榷運局局長[3]、奉天塩務局局長[2]、山東賑務督弁を歴任した[3]。
1927年(民国16年)5月31日、閻沢溥は中日実業株式会社取締役に就任した[4]。翌月の6月20日、北京政府の潘復内閣で財政部総長に特任された[3]。なお閻沢溥は、北京政府最後の財政部総長である。他にも全国道勝銀行清理処督弁と税務処督弁署理(代行)を兼任し、翌1928年(民国17年)3月5日には関税自主委員会委員にも特派された[3]。同年6月の張作霖敗北後に、閻も張に随従して奉天に引き返した。その途中、張が関東軍に爆殺されたが(張作霖爆殺事件)閻は難を逃れている。まもなく政界を離れ、実業に専念することになった[1][2]。
1931年(民国20年)9月に満州事変(九・一八事変)が発生した後に、閻沢溥は奉天入りして辺業銀行[注 2]総裁に就任した[1][5][注 3]。ところが同年12月3日、関東軍司令官・本庄繁に閻が面会したところ、本庄にその態度を怪しまれて一時的に監禁されてしまった[6][注 4]。翌1932年の満州中央銀行成立後に辺業銀行は統合・廃止されたため、有力銀行家としての地位を閻は失った[5]。
ただしその後も、閻沢溥は実業家としての活動を継続しており、前述の中日実業取締役については1935年(康徳2年)5月30日まで在任した[7]。1938年(康徳5年)9月発行の雑誌でも「民間の実業界に隠然重きをなしている」との記述が見受けられ[5]、昭和15年(1940年)刊行の『大衆人事録 第十三版 外地・満支・海外篇』(帝国秘密探偵社)「満洲」26頁でも閻の記述を確認できる。
1940年以降における閻沢溥の最終的な消息は不明である。なお昭和18年(1943年)刊行の『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』においては、閻の記述を確認できない。
注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「閻沢溥」(財政部財政史料陳列室・財政人物索引) 中華民国財政部ホームページ
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 伊藤隆ほか編『本庄繁日記 昭和5年1月~昭和8年12月 (近代日本史料選書 6-2)』山川出版社、1983年。
- 『中日実業株式会社三十年史』中日実業、1943年。
中華民国(北京政府)
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