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阿倍広庭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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阿倍 広庭
時代 奈良時代前期
生誕 斉明天皇5年(659年
死没 天平4年2月22日732年3月22日
官位 従三位中納言
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 阿倍朝臣
父母 父:阿倍御主人
兄弟 広庭布勢人主
嶋麻呂、安倍大刀自
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阿倍 広庭(あべ の ひろにわ)は、奈良時代前期の公卿右大臣阿倍御主人の子[1]官位従三位中納言

経歴

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文武朝慶雲元年(704年)前年に没した父・御主人功封100戸の内の1/4を継ぐことが許される(当時の位階従五位上[2]和銅2年(709年)以前に正五位下、和銅4年(711年正五位上、和銅6年(713年従四位下に叙せられるなど、元明朝にて順調に昇進を果たす。

霊亀元年(715年宮内卿養老2年(718年従四位上、養老5年(721年)には正四位下左大弁に叙任されるなど、元正朝でも要職を務めながら引き続き順調に昇進する。養老6年(722年参議に任ぜられて公卿に列し知河内和泉事も兼ねた。養老7年(723年正四位上

神亀元年(724年聖武天皇即位の前後に従三位に叙せられ[注釈 1]、神亀4年(727年中納言に任ぜられる。長屋王政権下では極端に議政官の異動が少ない中、広庭は非常に順調に昇進を果たしており、長屋王との関係が良好であったと見られる[4]。神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、議政官が長屋王糾問に参画する中で広庭と藤原房前の二人のみがこれに加わらず、変後の論功行賞にも与からなかった。

天平4年(732年)2月22日薨去享年74[5]。最終官位は中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事。

人物

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懐風藻』に五言詩「春日宴に侍す」「秋日長王(長屋王)が宅にて新羅の客を宴す」2首を残している。また、『万葉集』に和歌4首[6]、『拾遺和歌集』に和歌1首が採録されている。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 虎尾達哉は『続日本紀』によれば聖武天皇の即位の日(神亀元年2月4日)に当時議政官を構成していた9名中8名が特別な益封・昇叙を受けているのに唯一広庭だけが除かれていること、その5か月後の7月13日には広庭が1つ上の従三位の位階を帯びていることを不自然であるとして、『続日本紀』の編者が聖武天皇の即位に伴って行われた広庭の従三位への昇叙を書き洩らしたとしている[3]

出典

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 48頁。
  2. ^ a b 『続日本紀』慶雲元年7月22日条
  3. ^ a b 虎尾達哉「律令制下天皇即位時の特別昇叙について」『律令政治と官人社会』(塙書房、2021年)P145-146.
  4. ^ 木本好信『藤原四子』ミネルヴァ書房、2013年、121頁
  5. ^ 懐風藻
  6. ^ 『万葉集』巻3-302,370,巻6-975,巻8-1423
  7. ^ 『大日本古文書(正倉院編年文書)』7巻2頁
  8. ^ 公卿補任
  9. ^ 『続日本紀』天平宝字5年3月10日条
  10. ^ 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』吉川弘文館、1993年

出典

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  • 志田諄一「阿倍広庭」『国史大辞典 1』、吉川弘文館、1979年。ISBN 978-4-642-00501-2 
  • 後藤四郎「阿倍広庭」『日本史大事典 1』、平凡社、1992年。ISBN 978-4-582-13101-7 
  • 宇治谷孟『続日本紀(上)』講談社学術文庫、1995年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年