阿史那泥孰匐
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阿史那 泥孰匐(呉音:あしな ないじゅくぶく、漢音:あしだ でいしゅくふく、拼音:Āshǐnà Níshúfú、? - 680年)は、羈縻(きび)政策下の東突厥の可汗。
生涯
[編集]調露元年(679年)10月、単于都護府の突厥首領である阿史徳温傅と阿史徳奉職の2部落が反乱を起こし、阿史那泥孰匐を立てて可汗とし、単于都護府の24州はこれに応じて叛いた。高宗は鴻臚卿の蕭嗣業・左領軍衛将軍の苑大智・右千牛衛将軍の李景嘉にこれを討たせたが、逆に阿史徳温傅に敗北し、兵士の死者は万余人となった。また高宗は詔で礼部尚書の裴行倹を定襄道行軍大総管とし、太僕少卿の李思文・営州都督の周道務ら30数万を率いて阿史徳温傅を討伐し、これを大破した。
調露2年(680年)3月、裴行倹は突厥軍を黒山(大青山)で大破し、その首領の奉職を捕えた。可汗の阿史那泥孰匐はその部下に殺された。