阿曽沼就郷
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛永17年8月25日(1640年10月10日) |
別名 | 通称:源左衛門 |
官位 | 土佐守、丹後守 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤姓足利氏流阿曽沼氏 |
父母 | 父:阿曽沼広秀 |
兄弟 | 元秀、就郷、女(毛利元政継室)、女(桂元信室) |
子 | 片岡就貞 |
阿曽沼 就郷(あそぬま なりさと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。知行は600石。父は阿曽沼広秀。兄に阿曽沼元秀。
生涯
[編集]安芸国安芸郡世能荒山荘[1]を本拠地とした国人である阿曽沼広秀の次男として生まれる。
慶長2年(1597年)11月29日に父・広秀が死去。さらに、前年から始まった慶長の役で毛利秀元に従って朝鮮へ渡っていた兄・元秀が、同年12月22日に蔚山城の戦いにおいて明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000の急襲により、同じく毛利氏家臣である冷泉元満や都野家頼らと共に戦死した。これにより元秀の嫡男・元郷が家督を継いだ。
慶長20年(1615年)4月17日、幕府から毛利秀就に対して大坂夏の陣への出陣が命じられる[2]。同年4月28日に輝元と秀就は就郷と木原就重に対し、上洛する兵については誰の組の者であっても自らの配下と同様に諸法度を申し付け、違背した者は法度に従って処罰する事と、就郷と木原就重に付けた鉄砲衆のうち5人ずつは時に応じて触れ使いのために普請役を免除すべき事を命じている[3]。
寛永9年(1632年)9月3日、家督と600石の知行地を嫡男の就貞に譲ることを秀就に認められ、寛永17年(1640年)8月25日に死去。