コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

阿部守太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿部守太郎

阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日[1]1872年12月10日) - 大正2年(1913年9月6日[2])は、日本の外交官外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された[3]。妻の生は末弘直方の次女[4]

経歴

[編集]

大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身[1]第三高等中学校を経て、1896年明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した[1]。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した[1]。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった[1]1899年(明治32年)、参事官に昇進し[5]、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した[1]1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた[1]1909年(明治42年)、再び外務省参事官となり、1912年(明治45年)には政務局長に任命された[1]

1913年第二革命が勃発していた中華民国で、北京政府軍が9月1日南京を占領した際に、日本人が惨殺された[2]。外務省の姿勢を軟弱として批判が高まるなか、9月5日、阿部は帰宅中赤坂区霊南坂の官邸前で、岩田愛之助に影響を受けた岡田満・宮本千代吉の2名の青年によって刺され、翌6日に死去した(阿部守太郎暗殺事件[2]。事件の日、阿部は駐ベルギー特命全権公使に任ぜられたばかりだった[6]。犯人の岡田は9日に自決し、岩田は殺人教唆で懲役刑となった。墓所は青山霊園

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 『大分県人士録』pp.266-268
  2. ^ a b c 『回顧八十年史 第16輯』
  3. ^ 阿部守太郎暗殺事件コトバンク
  4. ^ 『人事興信録 3版』1911年、あ25頁。
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 52頁。
  6. ^ 『官報』第334号、大正2年9月8日。
  7. ^ 『官報』第4319号「叙任及辞令」1897年11月22日。
  8. ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
  9. ^ 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902年3月6日。
  10. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  11. ^ 『官報』第6644号「叙任及辞令」1905年8月22日。
  12. ^ 『官報』第7245号「叙任及辞令」1907年8月22日。
  13. ^ 『官報』第7321号「叙任及辞令」1907年11月21日。
  14. ^ 『官報』第7892号「叙任及辞令」1909年10月13日。
  15. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  16. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  17. ^ 『官報』第335号「叙任及辞令」1913年9月9日。

参考文献

[編集]
  • 佐藤巌『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。 
  • 『幕末・明治・大正 回顧八十年史 第16輯』東洋文化協会、1935年。