阿部守太郎
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阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日[1](1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日[2])は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された[3]。妻の生は末弘直方の次女[4]。
経歴
[編集]大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身[1]。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した[1]。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した[1]。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった[1]。1899年(明治32年)、参事官に昇進し[5]、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した[1]。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた[1]。1909年(明治42年)、再び外務省参事官となり、1912年(明治45年)には政務局長に任命された[1]。
1913年、第二革命が勃発していた中華民国で、北京政府軍が9月1日に南京を占領した際に、日本人が惨殺された[2]。外務省の姿勢を軟弱として批判が高まるなか、9月5日、阿部は帰宅中赤坂区霊南坂の官邸前で、岩田愛之助に影響を受けた岡田満・宮本千代吉の2名の青年によって刺され、翌6日に死去した(阿部守太郎暗殺事件)[2]。事件の日、阿部は駐ベルギー特命全権公使に任ぜられたばかりだった[6]。犯人の岡田は9日に自決し、岩田は殺人教唆で懲役刑となった。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 1897年(明治30年)11月20日 - 従七位[7]
- 1901年(明治34年)4月20日 - 従六位[8]
- 1902年(明治35年)
- 1905年(明治38年)8月21日 - 正六位[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[12]
- 1907年(明治40年)11月20日 - 従五位[13]
- 1909年(明治42年)10月11日 - 勲三等瑞宝章[14]
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正五位[15]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 勲二等旭日重光章[16]
- 1913年(大正2年)9月6日 - 従四位、勲一等瑞宝章[17]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 『大分県人士録』pp.266-268
- ^ a b c 『回顧八十年史 第16輯』
- ^ 阿部守太郎暗殺事件コトバンク
- ^ 『人事興信録 3版』1911年、あ25頁。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 52頁。
- ^ 『官報』第334号、大正2年9月8日。
- ^ 『官報』第4319号「叙任及辞令」1897年11月22日。
- ^ 『官報』第5337号「叙任及辞令」1901年4月22日。
- ^ 『官報』第5598号「叙任及辞令」1902年3月6日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』第6644号「叙任及辞令」1905年8月22日。
- ^ 『官報』第7245号「叙任及辞令」1907年8月22日。
- ^ 『官報』第7321号「叙任及辞令」1907年11月21日。
- ^ 『官報』第7892号「叙任及辞令」1909年10月13日。
- ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第335号「叙任及辞令」1913年9月9日。
参考文献
[編集]- 佐藤巌『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
- 『幕末・明治・大正 回顧八十年史 第16輯』東洋文化協会、1935年。