降魔研暢
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降魔 研暢 | |
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1799年(寛政11年) - 1875年(明治8年)8月7日 | |
法名 | 研暢 |
生地 | 伊予国宇摩郡三島 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺院 | 金剛峰寺 |
師 |
唯仁 唯円 |
降魔 研暢(ごうま けんちょう、1799年(寛政11年) - 1875年(明治8年)8月7日)は、高野山真言宗の僧。管長。金剛峯寺382世座主。
生涯
[編集]伊予国宇摩郡三島(現在の愛媛県四国中央市)出身。俗姓は前谷。字は厳亮。幼少期に高野山に登り、唯仁に師事し、後に唯円に従って四度加行、伝法灌頂を受けた[1][2]。
明治維新の改正で金剛峰寺に住職を置くことが命じられたため、1871年(明治4年)に金剛峰寺の住職と座主に就任。また僧侶も姓を名乗ることを命じられ「降魔」と称した[1]。
姓の降魔の由来は、当時、廃仏毀釈により金剛峰寺を弘法神社に変えようと提案していた明治政府を悪魔に例え、悪魔を降参させるという語呂合わせによるものである。また明治政府側であった薩摩藩の「摩」という字を悪魔の「魔」に見立てたともいわれている[3]。
1871年(明治4年)4月に教導職権少教正、同年10月に権大教正となる。また真言宗の初代管長となり大教正となった[1]。
脚注
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