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陳俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 俊(ちん しゅん、? - 47年)は、後漢の武将。子昭(ししょう)。南陽郡西鄂県(河南省南陽市臥竜区)の人(『後漢書』列伝8・本伝)[1]光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第19位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

事跡

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姓名 陳俊
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 47年建武23年)
字・別号 子昭(字)
本貫・出身地等 荊州南陽郡西鄂県
職官 郡吏〔新〕→太常将軍長史〔更始〕

→曲陽県長〔更始〕→安集掾〔劉秀〕
→強弩将軍〔劉秀(後漢)〕
→強弩大将軍〔後漢〕
 (後に兼琅邪太守)〔後漢〕

爵位・号等 列侯〔後漢〕→新処侯〔後漢〕

→祝阿侯〔後漢〕

陣営・所属等 王莽更始帝光武帝
家族・一族 子:陳浮

若くして南陽郡の吏となる。更始1年(23年)、劉玄が即位した際、宗室の太常将軍劉嘉付きの長史に任じた。劉秀が河北を攻略するに及び、劉嘉の推薦によって、陳俊は曲陽の県令を辞し、劉秀の下で安集掾となった。劉秀に従って農民反乱集団の銅馬・五校を河北に撃って功あり、強弩将軍を拝命した。

建武元年(25年)、劉秀即位の際に封侯された。

建武2年(26年)、河北・河南の農民反乱集団を討ち、新処侯に封ぜられた。さらに強弩大将軍を拝命し、河南・河内の農民反乱集団を打ち破った。

建武4年(28年)、河南・山東の農民反乱集団を討った。当時、泰山周辺の諸豪が劉永の配下の張歩と連合していた。劉秀は陳俊を泰山太守[2]に任じ、大将軍の兼行とした。陳俊は張歩軍を破って泰山周辺を平定した。

建武5年(29年)、建威大将軍耿弇とともにさらに張歩軍を破り、張歩を投降させた。琅邪郡がなお平定されていなかったため、陳俊は将軍職兼務のままで琅邪太守に移された。東海に割拠する董憲らを討ち平らげた。

陳俊

建武8年(32年)、張歩が叛き、洛陽から故郷の琅邪に奔走し、船に乗って逃げんとした。陳俊はこれを討って張歩を斬った。劉秀はこの功を称え、青州・徐州の平定を陳俊に一任した。陳俊は貧窮する民を慰撫し、義挙あればこれを表彰し、軍吏が郡県の行政権に介入しないよう抑制した。陳俊はしばしば上書して隴西の隗囂・蜀の公孫述を討ちたいと願い出たが、劉秀は「山東の平定は大将軍の功績である。沿海の盗賊は国家の憂いとなっている。しばらく鎮撫に勤めよ」と詔して陳俊を山東に留めた。

建武13年(37年)、食邑を加増され、祝阿侯に封ぜられた。

建武14年(38年)、洛陽に召されて朝請を奉じた。

建武23年(47年)、逝去した。

人柄・逸話

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  • 五校という賊と戦った時、陳俊は馬より降りて短剣を以て闘い、向かう敵をことごとく破り、逃げる敵を追うこと二十余里(8キロメートル余り)、その頭目を斬りて戻れば、劉秀は「将軍が悉くかくの如くあれば、どうして憂えることがあろうか」と感歎した。
  • その五校が漁陽郡に入寇すれば、陳俊は「軽騎をして賊の前に出して牽制し、百姓(ひゃくせい)をして各々堅く城壁を守り、その糧食を絶たしむべし。戦わずして亡ぼすべし」と劉秀に進言し、これが採用されて流賊はついに散じて敗れた。

脚注

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  1. ^ 『後漢書』巻18、呉蓋陳臧列伝第8、陳俊伝。
  2. ^ 『後漢書』では撰者范曄が父范泰の諱を避け、泰山を太山と記している。

参考文献

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  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)