陳円円
陳 円円(陳圓圓、ちん えんえん、拼音:Chén Yuányuán、1623年 - 1695年[1])は、中国明代末期の美妓。秦淮八艶の一人。明末清初に活躍した軍閥武将呉三桂の妾(側室)。本姓は邢、諱は沅。字は畹芬。叛将呉三桂の心を奪った傾国の美女といわれ、その生涯は多くの伝説で包まれている。
略歴
[編集]陳円円の出自や経歴は後世の巷談・俗説による粉飾が多く、確かなことはあまり分かっていない。
常州府武進県奔牛の出身で、はじめは名を邢沅といったが、母を早く亡くし、養父(母の姉妹の夫)の姓である陳姓を名乗り、人々は邢太太と称したという。歌謡に長じた絶世の美女であったといい、その美貌は「秦淮八艶」の一人とたたえられた。明末の皇帝崇禎帝の皇后周氏の父の周奎が皇帝のために金で集めた美女の中に選ばれたとも、田秀英(崇禎帝の妃の一人)の父の田弘遇が南京に遊んだ際に八百金で買われたともいう。やがて明末の混乱期に呉三桂の寵愛を受けてその妾となった(呉三桂と知り合うまでの経緯にも諸説ある)。
崇禎17年(1644年)大順皇帝を名乗った李自成が北平城を陥落させると、陳円円も李自成軍に捕らえられた。このとき呉三桂は北方から侵入しつつあった清軍への防備の要である山海関の守将としてドルゴン(順治帝の叔父)と対峙中であり、首都の危機を救うべく北平に向かいつつあったが、北平陥落を聞いて進軍を停止。李自成はしきりに呉三桂に降伏を勧めたが、陳円円が捕虜となったという報を聞くや、呉三桂は激怒して軍を戻し、山海関を開いて清軍に降り、反転して李自成軍の攻撃を開始した[2]。詩人の呉偉業(号は梅村)はこの寝返りについて「円円曲」という七言古詩を作り、呉三桂を批判した[3][4]。ドルゴン軍の先鋒として李自成軍を破り、北平を陥落させた呉三桂は、父や家族を李自成軍に殺害されながらも、陳円円を探索させ、自らの手に取り戻した[5]。この間の功績により、呉三桂は清朝廷から平西王として雲南に封じられたため、呉三桂は陳円円を正妃にしようとしたが、円円は固辞して受けなかった。そのため呉三桂は別の女性を娶ったが、この妃が嫉妬深い性格であったため、陳円円は王府の外の別院で独居したという。
康熙12年(1673年)呉三桂が広東の尚之信・福建の耿精忠とともに反乱を起こす(三藩の乱)と、陳円円は呉三桂の下を辞去して女道士となり、寂静と改名して思州府に余生を過ごしたという。
小説
[編集]- 『鹿鼎記』
- 『紅顔』(井上祐美子、講談社、1997年、ISBN 4062087928、(文庫版)中公文庫、2008年、ISBN 4122050464)
- 題名の「紅顔」とは、呉偉業の「円円曲」第二句において陳円円を表現した言葉である。
- 『傾国伝』(伴野朗、祥伝社)
脚注
[編集]- ^ 生年は1624年、没年は1644年、1674年、1681年とする説もある。ここでは『中国歴史文化事典』に従った。
- ^ 李自成の部将である劉宗敏に陳円円が奪われたという。
『明史』309巻 列伝第一百九十七 流賊 李自成伝「初、三桂奉詔入援、至山海関、京師陥、猶豫不進。自成劫其父襄、作書招之、三桂欲降、至灤州、聞愛姫陳沅被劉宗敏掠去、憤甚、疾帰山海、襲破賊将、自成怒、親部賊十余万、執呉襄於軍、東攻山海関、以別将従一片石越関外。三桂懼、乞降於我大清」。 - ^ 「円円曲」第二句に「慟哭六軍倶縞素、衝冠一怒為紅顔」(慟哭して六軍ともに縞素(喪服)なるに、冠を衝く一怒(冠が持ち上がるほどの激怒)するは紅顔(美しい女性)の為なり)とある。なお「慟哭六軍」は「痛哭三軍」にも作る。
- ^ 呉三桂は漢民族の李自成や南明を滅ぼし、また後には清朝にも反乱を起こしたため、満漢双方から評判が悪く、女のために寝返ったとするのは呉三桂を貶めようとする後世の粉飾である可能性もある。呉三桂が彼女のために寝返ったとする前掲の『明史』も清によって編纂された正史であり、この点での客観性は低い。
- ^ 北平落城の際に陳円円は行方不明となり、死亡したとする説もある。劉健『庭聞録』ではすでに陳円円は落城前に死んでいたとし、呉寛『平呉録』では自殺したとする。
参考文献
[編集]- 『東洋歴史大辞典 中巻』(1941年、縮刷復刻版、臨川書店、ISBN 465301471X)「陳圓圓」
- 『中国歴史文化事典』(孟慶遠、訳:小島晋治・立間祥介・丸山松幸、1998年、新潮社、ISBN 410730213X)「陳円円」
- 『小腆紀年』(徐鼒)4巻