崇禎帝
崇禎帝 朱由検 | |
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明 | |
第17代皇帝 | |
王朝 | 明 |
在位期間 |
天啓7年8月24日 - 崇禎17年3月19日 (1627年10月2日 - 1644年4月25日) |
都城 | 北京 |
姓・諱 | 朱由検 |
諡号 |
紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝(南明弘光帝による) 荘烈愍皇帝(清順治帝による) |
廟号 |
思宗→毅宗(弘光帝による) 威宗(隆武帝による) 懐宗(清による) |
生年 |
万暦38年12月24日 (1611年2月6日) |
没年 |
崇禎17年3月19日 (1644年4月25日) |
父 | 泰昌帝 |
母 | 賢妃劉氏 |
后妃 | 周皇后 |
陵墓 | 思陵(元は皇貴妃田秀英の墓) |
年号 | 崇禎 : 1628年 - 1644年 |
崇禎帝(すうていてい)は、明の第17代(最後)の皇帝。諱は由検(ゆうけん)。廟号ははじめは思宗、のちに改めて毅宗(以上は南明弘光帝による)、威宗(隆武帝による)、懐宗(清による)。諡号は弘光帝が紹天繹道剛明恪倹揆文奮武敦仁懋孝烈皇帝としたが、清が欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝懷宗端皇帝、そしてのちに欽天守道敏毅敦儉弘文襄武體仁致孝莊烈愍皇帝と改めた。一般的に清における崇禎帝の諡号を清の2つ目の諡号を略し莊烈愍皇帝とする[1]。また清は崇禎帝を明朝歴代皇帝と同じ北京昌平山に葬り、陵墓を「思陵」とした[2]。
生涯
[編集]第15代皇帝泰昌帝の五男として生まれた。天啓2年(1622年)に兄の天啓帝より信王に封じられた。天啓7年(1627年)に天啓帝が急死し、その男子がみな夭折していたため、翌崇禎元年(1628年)に皇位を継ぐことになった。即位してすぐに、兄帝の下で専横を振るった宦官魏忠賢を排除し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
当時は北に満州族の後金が侵攻し、南では李自成たちの反乱が多発した、まさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと懸命に努力した。
崇禎帝は祖父万暦帝や兄天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるようなこともなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、臣下を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺し、特に山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺したことは致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。在位17年の間に、崇禎帝によって誅殺された重臣は総督7名・巡撫11名に上り、その他罷免された者も多数おり、このことが重臣達の著しい士気の低下を招くこととなった。[3]
崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するため増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わり、まったくの逆効果であった。
崇禎17年(1644年)、李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。李自成の命令で、皇貴妃田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周皇后が合葬された。
娘の長平公主を斬るときは「ああ、そなたはどうして皇帝の女に生まれてしまったのか!」と泣いたという。しかし、泣きながら振るった刀が急所をそれたため、公主は左腕に傷を負ったのみで一命をとりとめ、王承恩の機転で紫禁城を抜け出した。
宗室
[編集]- 后妃
- 男子
- 献愍太子(悼帝) 朱慈烺(1629年 - 1644年?) - 母は周氏。呉三桂により一時擁立されるが、崇禎帝の死後間もなく病死(疑義有り)。
- 懐隠王 朱慈烜(1630年) - 母は周氏。生後間もなく夭折。
- 定哀王 朱慈炯(1632年 - 1644年?) - 母は周氏。李自成の乱で死去?南明時代に追封される。
- 永悼王 朱慈炤(生没年不詳) - 母は田秀英。1642年に永王追封が行われているので、それ以前に没しているとみられる。
- 悼霊王 朱慈煥(1633年 - 1708年) - 母は田秀英。明の滅亡後、王氏を名乗り僧侶として暮らしていたが、後に還俗。清の康熙年間に謀反の罪を問われ、一族もろとも刑死した。これにより、崇禎帝の血筋は断絶した。
- 悼懐王 朱慈燦(1637年 - 1639年) - 母は田秀英。夭折。
- 悼良王[8](1641年9月5日 - 1643年6月26日) - 名前は無かった。夭折。
- 女子
評価
[編集]- 2023年9月に中華人民共和国で出版された崇禎帝を扱った書籍『崇禎帝:失敗した王朝の勤勉な皇帝』を、政府当局は翌10月に回収処分とし事実上の発売禁止処分とした。政府当局は書名の「勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)」が国家主席の習近平を想起させるとし、再販の際に付けられた「愚策に次ぐ愚策、勤勉な王ほど国は滅びる」の宣伝文がさらに当局を刺激したことが原因とみられる[9][10]。
脚注
[編集]- ^ 滝野邦雄 『明・崇禎帝の諡号について(1)』
- ^ 清が崇禎帝の正統性を認め、独自の廟号・諡号を贈り、陵墓を造営したのは、清が李自成を逆賊と見なし、自らが明の後継者としてこれを討伐することを「入関」の口実としたからである。
- ^ このことから明は猜疑の皇帝で始まり、猜疑の皇帝で終わったことになる。
- ^ 『清世祖実録』
- ^ a b 『崇禎宮詞注』
- ^ 『国榷』
- ^ 『嶗山餐霞録』
- ^ 『皇第七子悼良王墓志銘』
- ^ “「彼が一生懸命働くほど国は滅びる」…価格が27倍になった中国禁書の警告”. 中央日報 (2023年10月23日). 2023年10月27日閲覧。
- ^ 歴史書「亡国の王」、販売禁止に 明最後の皇帝、習氏連想か―中国 - 時事ドットコム 2023年10月17日
登場作品
[編集]- 小説
- 映画
- ドラマ