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陳師道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 師道(ちん しどう、皇祐5年(1053年[1] - 建中靖国元年12月29日1102年1月19日))は、中国北宋詩人・政治家。は履常・無己。号は後山居士。徐州彭城県の出身。

略歴

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曾鞏に見いだされ、蘇軾に教えを受け、蘇門六君子のひとりとされる。新法に反対していたため満足に職を得られず貧窮し、妻子を郷里に預けて離ればなれに生活しなければならないほどであった。

徐州教授・太常博士を歴任する。が、陳師道は早くから、仕官を求める心[2]と、林野に悠々適居しようとする心[3]の相矛盾する感情の揺れに沿った人生であった。旧法党の追放により隠棲した際に、悠々と過ごせるかと思ったが、結局成し遂げずに秘書省正字で生涯を終えた[4]。野外で行われる冬至の祭礼に出席する際、新法派の親戚に防寒用の衣服を借りることを拒否したため体調を崩し、病状が悪化した結果のことという。著書に『後山集』・『後山詩話』[5]・『後山談叢』などがある。

詩の特徴

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その詩風は江西詩派のものとされ、黄庭堅と並称される。杜甫の作風を手本とする江西詩派のなかでも陳師道は特にその傾向が強い。苦吟するタイプで、家の中にこもって蒲団をかぶりながら詩作するので家人が避けるほどだったというが、その詩は技巧に凝りすぎずにほどよく情感が表現されている[6][7]

脚注

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  1. ^ 范月嬌『陳師道及其詩研究』によれば皇祐4年(1052年8月10日
  2. ^ 「我は昔 謝公門下の士、早年妄りに作す功名の意、如今老いて寄す潁河の東、九泉深しと雖も此の公に愧づ」(送黄生兼寄二謝二首其二・巻三)とある
  3. ^ 「猶ほ須く心を科挙の外に用うべし」(送黄生兼寄二謝二首其一・巻三)「生きては当に意を落鴎の辺に得べし、何ぞ用いん候に堕鳶の外に封ぜらるるを」(次韻蘇公西湖徙魚三首其二・巻三)とある
  4. ^ 横山伊勢雄 2009, p. 349.
  5. ^ 陳師道, 青木沙弥香, 竹澤英輝「翻訳 陳師道著 『後山詩話』訳注稿(1)」『言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要』第41巻第14号、愛知大学語学教育研究室、2006年1月、212-193頁、ISSN 1345-1642CRID 1050001337718526336 
    陳師道, 青木沙弥香, 竹澤英輝「翻訳 陳師道著『後山詩話』訳注稿(2)」『言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要』第42巻第15号、愛知大学語学教育研究室、2006年7月、166-145頁、ISSN 1345-1642CRID 1050845762648660608 
    陳師道, 青木沙弥香, 竹澤英輝「翻訳 『後山詩話』訳注稿(3)」『言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要』第44巻第17号、愛知大学語学教育研究室、2007年7月、260-234頁、ISSN 1345-1642CRID 1050282812695244288 
    陳師道, 青木沙弥香, 竹澤英輝「翻訳 『後山詩話』訳注稿(4)」『言語と文化 : 愛知大学語学教育研究室紀要』第45巻第18号、愛知大学語学教育研究室、2008年1月、194-171頁、ISSN 1345-1642CRID 1050845762648667648 
  6. ^ 吉川幸次郎『宋詩概説』(岩波書店、2006年、203頁-209頁)に作品を挙げつつ、詩風などについて解説がなされている。
  7. ^ 宇野直人・江原正詩『漢詩を読む③ 白居易から蘇東坡へ』(平凡社、2011年、460頁-473頁)に「除夜対酒贈少章」「示三子」「春懐示隣里」「十七日観潮」の詩の解釈のほか、陳師道にまつわるエピソードが紹介されている。

参考文献

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  • 横山伊勢雄『宋代文人の詩と詩論』創文社、2009年6月27日。ISBN 978-4-423-19267-2