陳振先
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陳振先 | |
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Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933) | |
プロフィール | |
出生: |
1876年1月12日 (清光緒元年12月16日) |
死去: |
1938年(民国27年)2月23日 中華民国湖北省武昌市金水農場 |
出身地: | 清広東省広州府南海県仏山分府 |
職業: | 政治家・経済学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳振先 |
簡体字: | 陈振先 |
拼音: | Chén Zhènxiān |
ラテン字: | Ch'en Chen-hsien |
和名表記: | ちん しんせん |
発音転記: | チェン ヂェンシェン |
陳 振先(ちん しんせん)は清末、中華民国の政治家・経済学者。北京政府の要人。字は鐸士。本籍は広東省広州府新会県。
事跡
[編集]清末は駐米公使館書記官をつとめる。1907年(光緒33年)、カリフォルニア大学を卒業した。帰国後は、廷試を受け、農科進士となる。1909年(宣統元年)、翰林院編修となる。後に奉天省農事試験場監督などを歴任し、また、考察憲政大臣の随員もつとめた。
中華民国成立後の1912年(民国元年)5月、北京政府の農林部次長となる。7月には陸徴祥内閣で宋教仁の後任として農林総長に昇進した。続く趙秉鈞内閣でも留任し、翌年3月、署理教育総長も兼任している。熊希齢内閣成立後の9月、陳振先は閣僚を辞任し、総統府顧問に転じた。1918年(民国7年)、安福国会の参議員となる。1927年(民国16年)には北京税務学校の校長兼経済教授となった。
北京政府崩壊後は実業活動に従事し、また、清華大学、北京大学の教授もつとめた。1935年(民国24年)、国民政府の軍事委員会委員長四川行営第2庁庁長に起用された。翌年、実業部農本局総経理に異動する。さらに湖北省武昌市金水農場場長も兼任した。
しかし1938年(民国27年)2月23日、陳振先は金水農場の農民暴動に巻き込まれ、襲撃を受けて殺害された。享年63(満62歳)。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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