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陳本深

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 本深(ちん ほんしん、1380年 - 1460年)は、明代官僚は有源、は涇泉。本貫寧波府鄞県

生涯

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永楽初年、郷挙により国子監に入った。刑部主事に任じられた。犯罪者の摘発を得意とした。ときに畿内の盗賊が殺人を犯して逃亡しており、司直が無辜の者18人を獄に繋いだ。本深は計略をもって盗賊を捕らえ、18人はみな釈放された。本深は刑部員外郎に転じた。

1430年宣徳5年)、本深は吉安府知府として出向した[1]。吉安府には豪強な者が多く、濫訴を好んだ。彭摶ら19人が閭里を横行していたことから、本深は人を派遣して誼を結ばせた。かれらを召し出してともに宴飲し、壮士を後堂に伏せて、かれらをひしぎ殺した。かれらの遺体が搬出されると、吉安府の人々は驚倒した。1435年(宣徳10年)、楽安県の曾子良が大盤山に拠り、1万人あまりを集めて反乱を起こした。本深は伏兵を設けてこれを撃破し、曾子良を斬った。

本深は学宮を整備し、先儒の欧陽脩周必大楊邦乂胡銓楊万里文天祥の祠廟を新築するよう上奏した。1439年正統4年)、9年の任期を満了し、転任の時期に当たっていたが、吉安府の人々が留任を請願したため、本深は正三品の俸給を与えられ、引き続いて吉安府知府をつとめた。1448年(正統13年)、本深は吉安府知府を18年にわたってつとめ、老齢を理由に致仕した。本深が吉安府を去ると、吉安府の人々はかれの肖像を祀った。1460年天順4年)、本深は家で死去した。享年は81。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻21

参考文献

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  • 明史』巻161 列伝第49