陳真 (アナウンサー)
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陳 真 | |
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プロフィール | |
出生: | 1932年6月14日 |
死去: | 2005年1月4日 |
出身地: | 日本・東京府豊多摩郡(現東京都杉並区)[1] |
職業: | アナウンサー |
各種表記 | |
繁体字: | 陳眞 |
簡体字: | 陈真 |
拼音: | Chén Zhēn |
和名表記: | ちん しん |
発音転記: | チェン・チェン |
陳 真(ちんしん、1932年6月14日 - 2005年1月4日)は、中華人民共和国北京放送のアナウンサー。NHK『中国語講座』(テレビ・ラジオ)の講師なども務めた。
日本から台湾をへて大陸へ
[編集]- 1932年6月14日、台湾・高雄出身の言語学者の父・陳文彬と台湾・嘉義を本籍とする医師・薬剤師の母・何灼華の次女として東京府の荻窪に生まれる。「陳蕙貞」と命名される[2]。
- 1937年から1944年に新潟に学童疎開するまで、東京・経堂の堀家(経済学者の堀江邑一)に預けられる(週末は陳家で過ごす)[3]。
- 1946年、父陳文彬が台湾大学に赴任するのにともない、台湾台北に転居[4]。
- 父の友人蘇新の勧めで台北転居後より14歳で文筆活動を開始[5]。
- 1947年、二・二八事件勃発。陳文彬が逮捕され、のこる家族(陳蕙貞、母、姉)は台北赤十字病院に避難[6]。
- 1947年秋、父陳文彬の台湾脱出にともない、国府当局からの迫害強化を予想、姉を弁護士にあずけ、母とともに逃避行を開始[7]。
- 1948年夏、姉と再合流し、3人で香港へ脱出[8]。
- 1949年8月末、天津で父陳文彬と再会[9]。
- 1949年8月末、北平の広播電台(放送局)に就職[10]、この時に「陳真」と改名[11]。
- 1951年4月-1954年、粟粒結核のため、黒山扈サナトリウムで療養[11]。
- 1991年-2000年 日本に長期出張、NHK『中国語講座』(テレビ・ラジオ)の講師を担当
- 2005年 胃癌により逝去。
学歴と職歴
[編集]- 学歴
- 職歴
著作
[編集]- 『漂浪の子羊』台北・陳蕙貞文芸出版後援会、1946年10月25日(私家版、日本語著書)
- 『陳真さんの北京だより―くらしとことば』東京・大修館書店、1989年6月1日(日本語著書) ISBN 978-4469230659
- 『北京放送 中国語で話そう〈生活篇〉』東京・東方書店、2001年1月1日(日本語著書) ISBN 978-4497892539
- 『柳絮降る北京より―マイクとともに歩んだ半世紀』東京・東方書店、2001年1月1日(日本語著書) ISBN 9784497201010
- 『北京暮らし今昔』里文出版、2005年1月1日(日本語著書)
共著
- 李明『生き生き中国語』 同学社、1998年2月1日 ISBN 978-4810201796
担当の語学講座
[編集]- 1962年-1966年 中国語講座(北京放送)
- 1973年-2000年 中国語講座 初級・中級(北京放送)[14]
- 1982年5月-1996年 「日曜日の楽しい日本語/星期日日语」(中国中央テレビ第一チャンネル)[15]
- 1991年5月-2000年 中国語講座(NHKラジオ・テレビ)
脚注
[編集]- ^ 杉並区は豊多摩郡に属した4町の編入により、東京府東京市の行政区として1932年10月1日に発足し、1943年7月1日に都制の施行にともない東京都の区となった。
- ^ 野田,2004,pp.18,25-27.
- ^ 野田,2004,p.32.
- ^ 野田,2004,pp.36-37,53.
- ^ 野田,2004,pp.68-.
- ^ 野田,2004,pp.pp.61-65.
- ^ 野田,2004,pp.82-85.
- ^ 野田,2004,pp.85-87.
- ^ 野田,2004,p.96.
- ^ 野田,2004,pp.97-101.
- ^ a b 野田,2004,p.03.
- ^ 野田,2004,p.38.
- ^ 野田,2004,p.58.
- ^ 陳,2001,pp.88-89.
- ^ 陳,2001,p.149.
外部リンク
[編集]参考文献
[編集]- 野田正彰『陳真 戦争と平和の旅路』岩波書店(2004初版、2005年第3刷「追記」つき) ISBN 400-023828-0
- 陳真『柳絮降る北京より―マイクとともに歩んだ半世紀』東京・東方書店、2001年