陶鶴寿丸
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文20年(1551年) |
死没 | 弘治3年4月3日(1557年5月1日) |
主君 | 大内義長 |
氏族 | 多々良姓大内氏流陶氏 |
父母 | 父:陶晴賢、または陶長房 |
兄弟 | 長房?、貞明?、鶴寿丸 |
陶 鶴寿丸(すえ つるじゅまる)は、戦国時代の人物。
生涯
[編集]天文20年(1551年)に生まれる。陶晴賢(隆房)の末子とも、その嫡男・長房の長男ともいわれている(年齢的に考えれば、晴賢の息子である可能性が高い)。 陶晴賢は厳島の戦いで討ち死した。
その後、鶴寿丸は、大内義長に近侍していたが、弘治3年(1557年)の防長経略で、長房は富田若山城でに攻められ討ち死(長穂村龍文寺に逃げ、そこで自害したという説もある。)した。
義長も攻められて長門国長福院(功山寺)で自害した際、そばにいた幼児である彼も義長に殉死した。享年7。これにより陶氏は断絶となった。鶴寿丸を殺害したのは陶氏の忠臣・野上房忠であるが、房忠も鶴寿丸殺害後に自害している。