陸船車
陸船車(りくせんしゃ)、門弥式陸船車(もんやしき りくせんしゃ)は、18世紀初め(1729年以前)に武蔵国児玉郡北堀村(現在の埼玉県本庄市北堀)の百姓である
自走の仕組み
[編集]この「門弥式陸船車」は、「新製陸舟車(久平次式陸船車)」と違い、踏車と歯車の原理を応用した足踏み式自走で推進した。構造上、久平次式の様にハンドル操作による方向転換はできず、体を傾け重心を移動したと考えられる。踏車や舟など身近な道具からの着想による発明で、近代の自転車とは構造が大きく異なる。また、三輪車の久平次式に対し、門弥式は四輪車である(立って搭乗する点は共通)。
車軸の中心にはめ込んだ小歯車が、上方の足踏み式大歯車(踏車の応用)とかみ合い、足で漕ぐ事により、歯車が連動して走行する仕組みとなっている。大歯車の側面には乗木という板が放射状に設置されて、これを踏んで回転させた。門弥式はこの踏車型機構が前輪側に設置されている。そのシンプルな機構ゆえに短期間で発展を遂げたと言える。
外観について
[編集]外観は、舟に木製車輪を付けたもので、上面の箱の内部に足踏み式歯車が設置されている。新製陸舟車はクランクペダル式でこの箱自体がなく、小型化している。ハンドルに当たる機構は竹田式陸船車から始まり、新製陸舟車で改良され、小型化している。『新製陸舟奔車之記』には、門弥の陸船車は長さは9尺(約2.73メートル)と記されている。車軸幅は1尺3寸、舟本体の幅は1尺と推定される。車輪の直径は約48センチメートル、厚さは約2.42センチメートルで、かなり薄く、その分強度の高い木材を用いたと考えられる。
庄田門弥について
[編集]将軍への献上
[編集]門弥の年齢もあり、完成した陸船車は門弥の息子善兵衛によって享保14年4月頃に江戸へ運ばれ、
その後の発展と終わり
[編集]享保15年には「竹田式陸船車(構造は門弥式に近いが踏車型機構を後輪側につけたため三輪で、方向転換も可能、外装を飾っている)」が見世物として京都竹本座で民衆の噂となる。これらの噂に触発されて、自走のカラクリを研究した彦根藩藩士の
その他
[編集]- 陸船車に関する研究は、1950年代から始まっており、考察は折々出ていた。
- 竹田式陸船車のみ、車体から車輪が飛び出ない形式となっている。竹田式を門弥式と久平次式の中間型とすると、久平次式(新製陸舟車)は先行する双方を参考に、改良されている事が分かる。
参考資料
[編集]- 『本庄市立歴史民俗資料館 資料館研究紀要 第4号』
- 『本庄人物事典』
- 庄田門弥について記述がある。
- 『本庄歴史缶』
- 1992年に彦根市役所から本庄市役所へ久平次の図面が紹介された経緯が書かれている。
- 『
拾珍御伽璣訓蒙鑑草 ()』- 享保15年に発行された諸々のからくりを記した本(第一復刻は昭和4年)。竹田式陸船車が載っている。