雄竹 (駆逐艦)
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(雄竹から転送)
雄竹 | |
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終戦後、舞鶴工廠で復員船に改装される「雄竹」(1945年10月13日) | |
基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 橘型駆逐艦 |
艦歴 | |
計画 | 1944年度(昭和19年度)計画 |
起工 | 1944年11月5日 |
進水 | 1945年3月10日 |
竣工 | 1945年5月15日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年7月4日、米国へ引き渡され、9月17日に標的艦として処分 |
要目(計画値) | |
基準排水量 | 1,262 トン |
公試排水量 | 1,530 トン |
全長 | 100.00 m |
最大幅 | 9.35 m |
吃水 | 3.30 m |
主缶 | ロ号艦本式ボイラー×2基 |
主機 | 艦本式タービン×2基 |
出力 | 19,000 馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 27.8 ノット |
燃料 | 重油 370 t |
航続距離 | 3,500 海里/18ノット |
乗員 | 211/310 名[1] |
兵装 |
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レーダー | 22号電探×1基 |
ソナー |
四式水中聴音機×1基 三式探信儀一型×1基 |
雄竹(おだけ)は日本海軍の駆逐艦。仮称4814号艦、橘型(改松型)駆逐艦として舞鶴海軍工廠で建造された。
艦名は壮大な感じの竹のこと。
艦歴
[編集]竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入するも、タービンの空気漏洩が見つかり、5月17日まで調整が行われた[2]。舞鶴湾で単独訓練を行い[3]、待機する。やがて、瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動してきた第十一水雷戦隊本体と舞鶴で合同。5月29日には高間少将の巡視を受けた[4]。空襲から逃れるため、6月に小浜湾に移動[5]。7月15日付で特殊警備艦となり舞鶴鎮守府部隊に編入され[6]、そのまま終戦を迎えた。
同年10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和22年)7月4日に青島で米国へ引渡し、その後9月17日に北緯35度29分 東経122度52分 / 北緯35.483度 東経122.867度の地点で標的艦として処分された[7]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』371-372頁による。
艤装員長
[編集]- 松雄敬次 大尉 1945年4月30日-
駆逐艦長
[編集]- 松雄敬次 大尉 1945年5月15日-
脚注
[編集]- ^ #S1906第11水戦日誌 (7), p.37
- ^ #S1906第11水戦日誌 (7), p.45
- ^ #S1906第11水戦日誌 (7), p.46
- ^ #S1906第11水戦日誌 (7), p.61
- ^ #S1906第11水戦日誌 (8), p.5
- ^ #S1906第11水戦日誌 (8), p.30
- ^ 田村 2005, p. 149.
参考文献
[編集]- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 田村俊夫「米国に引き渡された賠償艦艇の最期について」『帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ 51〉、2005年。ISBN 4-05-604083-4。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 歴史群像編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。JACAR:C08030128000。
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(8)』。JACAR:C08030128100。