雨森清定
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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死没 | 天正15年5月27日(1587年7月2日) |
別名 | 次兵衛尉、数馬、三郎右衛門、主計頭 |
戒名 | 宗久禅定門 |
主君 | 浅井長政 |
氏族 | 雨森氏 |
父母 | 雨森良里 |
兄弟 | 清定、清則、雨森良将室 |
妻 | 千田有義の娘、浅井亮政の娘 |
子 | 良素 |
雨森 清定(あめのもり きよさだ)は、戦国時代の武将。浅井氏の家臣。近江国伊香郡雨森の人。
人物
[編集]武名に高い海北綱親・赤尾清綱と合わせ、「海雨赤の三将」と並び称されたのは、一説にこの清定だという[1]。天正元年(1573年)の小谷城の戦いで主家が滅んだ際、一門のうち72騎が戦死した。
雨森氏
[編集]雨森氏は北近江の戦国大名である京極氏、次いで浅井氏に仕えたという。江戸時代中期に対馬府中藩に仕えた儒学者雨森芳洲はその末裔。
清定の従弟にあたる雨森清良は、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで討死。その弟清次が家督を継承し、浅井氏滅亡後は織田信長に降った阿閉貞征に属したが、天正10年(1582年)の山崎の戦いで阿閉氏が滅びた後は渡岸寺村[2]に蟄居した。清次の子清広はその後松江藩に仕えた。
その他では雨森弥兵衛が知られる。天文4年(1535年)に多賀氏との戦いで海北善右衛門とともに戦死した武将の名に「雨弥」が見られる。その後も雨森弥兵衛は史料上に散見され、その弥兵衛は浅井久政の奏者であったようである。系図資料では広常―広商―高宗の3代が弥兵衛を称しており、赤尾氏・海北氏とともに賞されたのはこの高宗の事とされる。