青山宗祐
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長13年(1608年) |
死没 | 寛永21年4月9日(1644年5月15日) |
改名 | 宗佐、宗祐 |
別名 | 弥八郎 |
幕府 | 江戸幕府 書院番 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 青山氏、大久保氏 |
父母 | 父:青山忠俊[1]、母:大久保忠佐娘 |
兄弟 | 宗俊、宗祐、忠栄、正俊、滝川正利正室、寿松院、川口正信室、中根正次室 |
青山 宗祐(あおやま むねすけ)は、江戸時代前期の旗本。一時期、母方の祖父である大久保忠佐の養子となったが、養子解消して実家に戻っている[2]。
生涯
[編集]慶長13年(1608年)、徳川家譜代の重臣・青山忠俊[3]の次男として誕生した。元和9年(1623年)に父が3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になった際、父と共に相模国高座郡溝郷に蟄居した。
寛永9年(1632年)、家光から許されて再出仕し、書院番となる。寛永11年(1634年)、知行300石を賜る。
寛永21年(1644年)4月9日、駿府城番衛の時に死去(寛永20年(1643年)とも)。享年37(もしくは36)。子は無く、家名は断絶した。
脚注
[編集]出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜 巻第727」