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青山鉞四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青山 鉞四郎
生年月日 1864年12月24日
元治元年11月26日
出生地 日本の旗 日本尾張国海西郡鵜多須村(愛知県愛西市鵜多須町
没年月日 1933年6月7日
配偶者 あり
子女 1人
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青山 鉞四郞(あおやま えつしろう[1]1864年12月24日元治元年11月26日[1]) - 1933年昭和8年)6月7日[2])は、日本の弁護士

人物

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尾張藩士青山重威の子[注釈 1]であり、1864年元治元年)11月、父の任地であった尾張国海西郡鵜多須村の鵜多須代官所[注釈 2]において産声を上げた[3]。3歳のころ、名古屋正木町に移る[3]。父は漢学者であったためその薫陶を受け、小学校修学ののち、森村義民佐藤牧山を仰ぎ、3冊の著書をなした[3]

1883年(明治16年)、19歳のとき、二松学舎に入るが、1885年(明治18年)に大学古典講習科漢学部に転じる[3]。しかし、1886年(明治19年)に明治法律学校に移り、3か月で代言人試験(弁護士試験)を受験する[3]。このときの試験には不合格だったが、翌年合格[3]。学校は1学年を修めたのち、退学し、改めて編入試験に合格し、3学年に編入[3]。1888年(明治21年)7月をもって全課程を2年で終えた[3]

卒業後、東京組合に加盟し、1888年(明治21年)に宇都宮で開業[3]。1891年(明治24年)に福島に移るが、1893年(明治26年)に帰郷し、名古屋組合に加盟した[3]

1894年(明治27年)9月、月刊の判例新報を創刊[5]

1895年(明治28年)、名古屋市会議員選挙に初挑戦するも、7票差で惜敗[5]。1898年(明治31年)10月の再挑戦で、初当選を果たす[5]

宇都宮時代から自由民権運動にかかわり、立憲自由党、憲政党を経て、政友会に至った[5]

1899年(明治32年)4月、弁護士会長[1]

1921年(大正10年)7月9日から、1921年(大正10年)10月24日のあいだ、名古屋市会議長を務める[WEB 1]

著作

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  • 『臺灣雜詠』青山鉞四郎発行、1931年12月。
  • 『謡曲二番詩』前集、後集、青山鉞四郎発行。

脚注

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注釈

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  1. ^ 長子[3]とする資料と、4男[4]とする資料がある。
  2. ^ 出典には「歌州陣屋」とある[3]

出典

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WEB

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  1. ^ 名古屋市会事務局総務課秘書担当 (2024年2月16日). “歴代議長一覧表”. 名古屋市. 2024年4月4日閲覧。

書籍

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  1. ^ a b c 手島益雄 1915, p. 20.
  2. ^ 『官報』第2059号、1933年11月10日、13頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 鈴木金太 1902, p. 155.
  4. ^ 人事興信所 1928, p. ア48.
  5. ^ a b c d 鈴木金太 1902, p. 156.

参考文献

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  • 鈴木金太『衆議院議員候補者評伝 逐鹿界之片影』山田丹心館、名古屋、1902年7月。全国書誌番号:40016132 
  • 手島益雄『名古屋百人物評論 続』日本電報通信社名古屋支局、名古屋、1915年。全国書誌番号:43022908 
  • 人事興信所 編『人事興信録』(第8版(昭和3年))人事興信所、東京、1928年。全国書誌番号:47037238 

関連項目

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