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青木猛比古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

青木 猛比古(あおき たけひこ、1831年天保2年)[1] - 1867年慶応3年)[2])は、幕末期の尊皇運動家。豊後国海部郡堅田郷柏江村(現・大分県佐伯市)出身[1]

農家に生まれ、幼少時より寺院に預けられる[1]1852年嘉永5年)に寺院を出奔して還俗し、尊皇運動に身を投じる[1]大坂に出たのち、京都白川伯王家の当主・資訓の知遇を得て、九州方面で尊皇運動の宣布活動をおこなった[1]。その後、京都と長門国周防国等を往来する[1]1865年(慶応元年)に豊後に戻った際に、楠木正成にちなんだ「楠公会」を佐田秀(ひずる)とともに結成した[1][3]1866年(慶応2年)の第二次長州征伐の際には小倉城の戦いに長州藩側で参加した[1]。その後は豊後国内で尊皇運動を続けたが、日田郡代が同志を襲撃したことを受けて、馬関(現・下関市)に逃れる[1]。翌年、京都に向かったが、その地で幕府側により殺害された[2]

死去から約65年が経過した1932年7月に、郷里の速川神社境内に、南海部郡教育会の手により記念碑が建立された[4]

関連文献

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 下川勝三郎「勤王家青木猛比古先生」『大分縣地方史』第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、13-31頁、CRID 1050845762584974336NAID 120002813725 
  2. ^ a b 佐藤蔵太郎「青木猛比古」『大分縣地方史』第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、2-4頁、CRID 1050001337654841216NAID 120002813721 
  3. ^ 国学 - 『大分事典』大分放送
  4. ^ 山田平之亟「青木猛比古先生建碑顛末」『大分縣地方史』第47巻、大分県地方史研究会、1967年12月、32-33頁、CRID 1050282812631553024NAID 120002813726 
  5. ^ <Not Found> 別府大学地域連携プログラム[リンク切れ]