青柿善一郎
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青柿 善一郎(あおがき ぜんいちろう、1887年〈明治20年〉2月9日 - 1975年〈昭和50年〉11月14日)[1]は、大正から昭和の日本の労働運動家。
経歴・人物
[編集]奈良県吉野郡川上村に生まれ、尋常小学校を卒業する[1]。小学校卒業後は山林労働に従事[1]。1915年(大正4年)大阪砲兵工廠に入り、以後松田製作所、神戸製鋼所などを経て、1917年(大正6年)川崎造船所に入ると同時に友愛会に入る[1][2]。1921年(大正10年)労働組合の指導者として川崎・三菱造船場大争議を指導し、逮捕・起訴される[1]。1925年(大正14年)総同盟革新同盟が結成されると委員長となり、コミンテルンの会議などでモスクワへ渡る[1]。その後は、無産大衆党、日本大衆党などで活躍する[2]。1929年(昭和4年)神戸市会議員となる[1]。翌年の1930年(昭和5年)の衆議院議員選挙では落選[1]。1937年(昭和12年)人民戦線事件で逮捕され、懲役3年に処せられた[1]。第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)共産党に入党した[1][3]。