コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

靺鞨語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
靺鞨語
話される国 渤海[1][2][3]
地域 満洲
朝鮮半島
話者数
言語系統
言語コード
ISO 639-3
テンプレートを表示

靺鞨語(まっかつご)は、靺鞨が使用していた言語である。

概要

[編集]

靺鞨の前身というべき挹婁勿吉について、『魏志』東夷伝挹婁条は「その人の形夫余に似る。言語、夫余、句麗と同じからず」とある。『北史』勿吉伝は「勿吉国は高句麗の北にあり。一に靺鞨と曰う。…言語、独り異なる」とあり、靺鞨の言語は周辺諸民族ときわだって異なっていた[5]。さらに、靺鞨語とはいえ、越喜靺鞨鉄利靺鞨払涅靺鞨などの靺鞨諸部族によって多様な差異方言があったとみられる[5]。 

エ・ヴェ・シャフクノフ(英語: Ernst Vladimirovich Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によると、渤海人靺鞨の名前の後尾には「蒙」の字が付いていることがあるが(烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース系民族は氏族を「木昆 (満州語: ᠮᡠᡴᡡᠨ、 転写:mukūn)」「謀克」と称しているが、「蒙」の音が「木」や「謀」の音と近いことを考えると、この「蒙」の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる[6]

810年5月、来日した渤海使の一員である首領の高多仏が使節団から離脱して、越前国にとどまり、亡命した。その後、高多仏は越中国に移されて、史生羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習した[5]。高多仏が教習した渤海語とは、靺鞨語とみられる[5]

脚注

[編集]
  1. ^ 朱国忱魏国忠『渤海史』東方書店、1996年、248頁。ISBN 978-4497954589。「文献に記録されている言語は未詳であって、その全体を究明することは難しい。わずかに『新唐書』渤海伝および『旧五代史』渤海靺鞨などの史書に、渤海では王を『可毒夫』と呼び、王に対面する時は『聖』と呼び、上表する時は『基下』と書くとあるが、この『聖』は明かに漢語からの借用語である。ソ連(ロシア)の学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、『可毒夫』とはおそらく満洲語の『卡達拉』(管理するの意味(ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊/kadala-))やナナイ語の『凱泰』と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う。また、渤海人と靺鞨人の名前には最後に『蒙』の字の一音節を持つ『烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙』などの例がある。この『蒙』の音は靺鞨語の中で重要な膠着語尾の一つであることが知られる。ツングース語系の各民族は氏族を『木昆』『謀克』と称するが、『蒙』の音が『木』や『謀』の音と近いことを考えると、この『蒙』の音は、その人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。当時、靺鞨語が国家の公用語であり、広汎に使用されていたことは間違いない。」 
  2. ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。「八一〇年(弘仁元)五月、帰国を目前にした渤海使の一員であった首領の高多仏が使節団から一人離脱して、越前国にとどまることになった。いわば亡命である。高多仏はその後、越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習することになったが、この高多仏が教習した渤海語とは、いったいどのような言葉であったのだろうか。『新唐書』渤海伝に、「俗に王を謂いて、可毒夫と曰う。聖主と曰う。基下と曰う」と、王の俗称、つまり固有の呼び方があったことを伝えている。このことは渤海には、独自の言語が存在したことを示しているといえよう。そもそも言語と密接な関係にあるのが民族であるが、渤海は高句麗の遺民や粟末あるいは白山靺鞨などを糾合して樹立された多民族国家である。とすればまずは高句麗語が話されていたことは想像に難くないが、粟末靺鞨や白山靺鞨の前身ともいうべき挹婁や勿吉について、『魏志』東夷伝挹婁条には、「その人の形夫余に似る。言語、夫余、句麗と同じからず」とあり、また『北史』勿吉伝にも「勿吉国は高句麗の北にあり。一に靺鞨と曰う。…言語、独り異なる」とあることから、靺鞨の言語は周辺諸民族ときわだって異なっていたのであろう。したがって靺鞨諸部もその構成民族とする渤海では、靺鞨語が話されていたことになる。しかも渤海が領域を拡大していく過程で、越喜や鉄利・払涅などの北方の靺鞨諸部を征服し多くの部族を内包しており、靺鞨語とはいえ、地域や伝統によって差異、つまり方言などもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗語をはじめ多様な靺鞨語が話される多重言語の世界であったのである。以上のような理解に立つならば、在地の首長である首領の高多仏が教習した渤海語とは、こうした靺鞨語ではなかったかと思われる。」 
  3. ^ 波戸岡旭『渤海国の文学—日渤応酬詩史概観』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、67頁。「渤海国は靺鞨族を主体とし高句麗人・漢人・突厥人・契丹人・室韋人・回紇人など多くの民族がいたらしいが、建国当初は靺鞨語を公用語とした。しかし政治機構をはじめとしてもろもろの制度・文化が唐風化されて行くうちに、漢語が公用語となっていった。また、渤海は高句麗の文化・文学を継承したが、高句麗の文化・文学はすでに唐風化されていたものである。そして更に渤海建国の後も唐風化されつつ大いに栄えた。但し、大使に文官が任命されるようになったのは、第六回朝貢使からである。」 
  4. ^ マイペディアツングース語系諸族』 - コトバンク
  5. ^ a b c d 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。 
  6. ^ 朱国忱魏国忠『渤海史』東方書店、1996年1月、248頁。ISBN 978-4497954589 

関連事項

[編集]