鞍信一
鞍 信一(くら しんいち、1910年3月17日 - 1991年2月1日)は、石川県金沢市木ノ新保生まれ。戦前は五反田 信一と名乗っていた。
1910年(明治43年)石川県金沢市木ノ新保にて生まれる。五反田家に生まれたが、鞍家に養子に出される。米穀卸、新聞配達、化粧品販売など様々な職を遍歴する[1]。少ない給料ながら映画館や劇場へ頻繁に足を運び、新聞社などへ短歌や詩を投稿し、文芸活動を行なっていた。
1929年(昭和4年)12月、19歳の時に映画の宣伝物制作の手腕を買われて「第二菊水倶楽部」の企画宣伝部長となる。かたわら、鞍自身の編集・発行で金沢市内の喫茶店や映画館、風俗流行、粟ヶ崎遊園の話題を掲載した「モダン金沢」を発刊する。
1930年(昭和6年)友人の村井武生の童話劇用人形製作の手伝いで大阪に赴く。
1932年(昭和7年)11月、「バット劇場」「ボヘミアン小劇場」「オアシス児童劇場」「世紀座」「グリム小劇場」の5劇団の合同公演を鞍が企画、粟崎遊園にて公演が行われる。鞍は他にも積極的に金沢の新劇運動に関わり「風船玉座」「グリム小劇場」「劇団ドウゲキ」など多くの劇団を組織した。
1933年(昭和8年)8月8日、金沢市役所の側に喫茶店「モナミ」を開業し、四高生や文学青年が集う。夏の一時期には粟ヶ崎遊園にも出店していた。
戦時中の1943年 - 1944年(昭和18年 - 19年)には鞍らは自身のレコードを持って軍需工場へ「名曲慰問レコード・コンサート」出張を行なった[2]。
「モナミ」はのちに「金沢喫茶村」という名称となり、店内は1階が喫茶店、2階はレコードなどの資料館、3階は「モザール(モーツアルトのフランス語読み)」というミニホール、屋上には煙突に絵を描いたトーテムポールが立っていた[3]。また、北陸喫茶珈琲学院を主催し多くの後進を育てた。
1991年(平成3年)11月、死去。80歳没。死後、鞍が所有していたレコード・蓄音機のコレクションは石川県立歴史博物館に寄贈された[4]。
著作
[編集]- 鞍信一『大作曲家と珈琲』いなほ書房、1988年10月 。
脚注
[編集]- ^ 山口昌男 (1995). 挫折の昭和史. 岩波書店
- ^ 滝口征士『鞍信一文芸年譜 : 村井武生(詩人)の友1』ふるさと資料普及会、8 。
- ^ 『月刊喫茶店経営 別冊 blend』柴田書店、1982年。
- ^ “企画展 モダンの調べ 鞍信一蓄音機コレクション|石川県立歴史博物館”. インターネットミュージアム. 2018年10月15日閲覧。