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韓璟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

韓璟(ハン・ギョン、한경、1917年 - 没年不詳)は、朝鮮半島独立運動家朝鮮民主主義人民共和国軍人。別名として千暻伊曺晃王揖五などがある[5]

経歴

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韓一来(千炳林)の長男[1]。1917年、忠清南道扶余に生まれる[1][7]。1933年、祖父とともに中国へ渡り、同年9月に義烈団の運営する朝鮮革命幹部学校へ入学、1934年4月、第2期生として卒業[1][3]。1934年2月に洛陽軍官学校へ入学、1935年4月に卒業し、同年9月に南京の中国中央陸軍軍官学校第11期予備班へ入学した[1][4]。1936年7月、朝鮮民族革命党南京軍官学校特別党員[1]。1939年、抗日軍政大学入学[1]。1941年夏、八路軍第129師地域において副分隊長として反掃討戦に参加[1]。同年8月以降、第129師第1旅で6ヶ月間学習し、太行山根拠地で活動[1]。同年末には朝鮮義勇隊華北支隊第3隊第1分隊長として順徳一帯で抗日武装宣伝活動を展開した[1]。1945年前半、朝鮮革命軍政学校において第2中隊長を務める[1]

光復後、朝鮮義勇軍第1支隊員として東北へ進出、南満の磐石、輝南地区において玄波とともに募兵を行った[8][9]。1946年春、38度線以北へ帰国[6]。米軍報告書によれば、1948年6月時点で朝鮮人民軍第1師団参謀長[10]朝鮮戦争中、軍団参謀長[6]。のちに第4軍団軍事委員などを務めた[6]。1958年頃に失踪した[6]

参考文献

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  • 강만길; 성대경 編「한경」『한국사회주의운동인명사전』창작과비평사、1996年、515頁。ISBN 8936470302 
  • 김중생『조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁』명지출판사、2000年。ISBN 8931107447 
  • 김선호『조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원』한양대학교 출판부、2020年。ISBN 9788972186809 

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 강만길 & 성대경 1996.
  2. ^ a b c 韓相禱 著「黃哺軍官學校와 韓人獨立運動」、국사편찬위원회 編『國史館論叢 第41輯』1993年http://db.history.go.kr/id/kn_041_0070_0040_00102020年9月9日閲覧 
  3. ^ a b 국사편찬위원회 編「洪加勒 訊問調書(第五回)」『韓民族獨立運動史資料集 31 義烈鬪爭 4』1997年http://db.history.go.kr/id/hd_031_0010_01302020年9月9日閲覧 
  4. ^ a b c 국사편찬위원회 編「白贊基 訊問調書(第四回)」『韓民族獨立運動史資料集 43 中國地域獨立運動 裁判記錄 1』2000年http://db.history.go.kr/id/hd_043_0040_0010_00702020年9月9日閲覧 
    王揖五, 當十八年ハ最モ年少テシタ. 本名不詳. 出生地不明デス. 言葉ハ慶尙道訛デシタガ, 南京ニ家ガアルトカデ金使ヒモ荒イ樣デシタガ何ンデモ義烈團幹部ニモ親戚ガアルヤニ申シテ居マシタガ詳カデアリマセヌ. 中等學校二年在學中, 來イト云フ手紙ヲ受ケテ遣ッテ來タ樣申シテ居リマシタ.
  5. ^ それぞれの名について漢字の表記揺れをまとめると、韓璟[1]、韓慶[1]、韓鏡[1]、千暻伊[1]、于暻伊[2]、曺晃[3]、曹晃[1][2]、王揖五[4]、王楫五[2]、王輯五[4]などとなる。一部は単なる誤転写か。
  6. ^ a b c d e 김중생 2000, pp. 130–131.
  7. ^ 金中生『朝鮮義勇軍の密入北と6・25戦争』は1916年生とする[6]
  8. ^ 김중생 2000, pp. 81–82.
  9. ^ 『韓国社会主義運動人名事典』によればこの時第1支隊参謀長[1]
  10. ^ 김선호 2020, p. 537.