韓綜
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韓 綜 | |
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生誕 | 生年不明 |
死没 | 嘉平4年12月23日(253年2月8日) |
死因 | 戦死 |
職業 | 将軍〔魏〕 |
時代 | 三国時代 |
団体 | 孫権→曹叡→曹芳 |
親 | 韓当 - 父 |
補足 | |
爵位:石城侯〔呉〕→広陽侯〔魏〕 |
韓 綜(かん そう)は、中国三国時代の武将。呉・魏に仕えた。父は韓当。
生涯
[編集]父の存命時はともに孫権に仕えたと思われる。父の死後、黄武5年(226年)、孫権は石陽に軍を進めたが、韓綜は父親の喪に服しているということで、武昌に留まって守りにあたらせた。しかるに韓綜は、淫乱にふけり無法を働いた。孫権は、韓当に免じてそれをとがめなかったのであるが、韓綜は内心、懼れをいだき、黄武6年(227年)閏12月に韓当の棺を持って、母親や家族、それに部曲など、男女数千人を引きつれて、魏に逃げ込んだ[1]。
魏の将軍となった韓綜はしばしば辺境を犯し、呉の平民を殺害した。孫権はいつも歯がみをしてそれをくやしがっていた。後、東興の戦いに魏将の一人として参加したが、諸葛恪らに敗れ、桓嘉らと共に戦死した。首は孫権の廟に供えられた。
小説『三国志演義』では、東興の戦いで丁奉に斬られる魏の一武将として名が挙がるのみである。
脚注
[編集]- ^ 韓綜は叛逆を企てたものの、左右の者が言うことを聞かぬのではないかと恐れた。そこで略奪を働くようそそのかし、彼らを裕福にしてやりたい気持ちがあるかのように見せかけた。次々と真似する者が現れたため、旅行者は多大な損害を被った。後日、部曲が強盗を働いた件について譴責する内容の詔勅が届いたと嘘を吐き、「将軍・軍吏以下、揃って処罰されるだろう」と言い、さらに、処罰は自分へも波及する懸念があるとも言った。左右の者たちはそのため「退去するしかありませぬ」と言い、とうとう共謀するようになった。韓綜は父を埋葬するからといって親戚の姑や姉をみんな呼び戻して、彼女らを残らず将兵に嫁がせ、お手付きの女中でさえも全て側近たちに賜与してしまい、牛を殺して血をすすり、ともに盟誓した。
参考文献
[編集]- 『三国志』呉志 韓当伝