音戸丸級貨客船
音戸丸級貨客船 | |
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「音戸丸」(煙突改修後) | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
運用者 |
大阪商船 摂陽商船 日清汽船 東亜海運 関西汽船 |
建造所 | 三菱神戸造船所 |
建造期間 | 1924年 – 1925年 |
就航期間 | 1924年 – 1960年 |
建造数 | 3隻 (喪失1隻、引退1隻、不明1隻) |
要目 | |
総トン数 | 688 トン |
垂線間長 | 51.82 m |
幅 | 8.53 m |
喫水 | 5.56 m |
主機関 |
ヴィッカース ディーゼル機関 1基1軸 600馬力 |
速力 | 12.3ノット |
音戸丸級貨客船とは、大阪商船が運航した貨客船のクラスの一つで、1924年(大正13年)から1925年(大正14年)の間に三菱神戸造船所で建造された、日本における最初のディーゼル船のクラスである。
建造までの背景
[編集]1884年(明治17年)創立の大阪商船は小規模船主の集合体から始まったが、阿波国共同汽船や尼崎汽船部のように合同に参加しなかった船主も存在し、いくつかの航路では競争相手となった。競争の過熱化を防ぐため、大阪商船はしばしば競争相手との間で時限協定を締結したが、期限が過ぎると再び競争が再燃するということを繰り返していた。「大阪山陽線」と称していた瀬戸内海沿岸部の諸港を巡る航路でも例外ではなく、尼崎汽船部との間に協定締結と協定の期限切れによる競争再発が繰り返されていたが、1917年(大正6年)に四度目の協定が締結されてからは共同経営の形がとられるようになって、競争も一応は収まった[1]。
そのころ、第一次世界大戦後の海運不況対策の一つとして、世界各国の船会社では「経済的」なディーゼル機関や重油専焼装置の導入がすすめられることとなった[2][3]。この流れに乗って、大阪商船が建造した最初のディーゼル船が、音戸丸級貨客船である。この時点でディーゼルエンジンを製作していた日本の企業はヴィッカースと提携していた三菱神戸造船所、スルザーと提携していた神戸製鋼所、そのほか新潟鐵工所および池貝鉄工所などであったが、小型船か潜水艦向けのものが多かった[4]。三菱神戸造船所で建造された音戸丸級貨客船は、ヴィッカースから直接輸入した600馬力のディーゼルエンジンを搭載し、狭溢な水路を航行できる船型を持っていた[1][5]。もっとも、大阪商船が「ディーゼル機関の有利なるを確かめたるが故に」と記していることや、あとにして建造された「紅丸」(1,540トン)とともに「石炭燃料船と其の能率の比較研究中」と書かれた新聞記事があるように、多少は実験船としての性格をもっていたようにも見受けられる[4][6]。ともかく、音戸丸級貨客船は日本における「ディーゼル船の嚆矢」[4]であり、「遠洋航路用大型ディーゼル船運航の素地を作った」[7]点で重要な船クラスの一つである。ほかならぬ大阪商船が、音戸丸が竣工した1924年(大正13年)から、1933年(昭和8年)までの10年間に建造した38隻の所有船のうち31隻をディーゼル船でそろえ、「実に当社は我国第一のディーゼル船々主である」と自負するにいたった[4]。
一覧
[編集]船名 | 起工 | 進水 | 竣工 | 出典 |
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音戸丸 | 1923年6月4日 | 1923年11月10日 | 1924年1月25日 | [8] |
早鞆丸 | 1924年7月15日 | 1924年12月15日 | 1925年3月26日 | [9] |
三原丸 | 1924年7月15日 | 1925年1月14日 | 1925年3月31日 | [9] |
特徴・就役
[編集]ディーゼルエンジンの導入や船型以外でも、音戸丸級貨客船では上甲板に二等客室、中甲板の船首尾に三等客室を設け、甲板上の諸機械もすべて電化されていた[5]。最大の特徴は、「音戸丸」だけであるがディーゼル船がゆえに就航当初は「煙突は不用」として排気管しか取り付けなかったことである[5][10]。しかし、これでは大阪商船の「大」のファンネルマークを表示する場所がなかったため、排気管の周囲に櫓をめぐらせ、櫓の側面に赤地の「大」のファンネルマークを取り付けた[5][10]。ところが、これはこれで違和感があり、しばらくのちに汽船型のダミー・ファンネルを設置して見慣れた「黒地に白の「大」のファンネルマーク」を表示することができた[10]。間をおいて竣工した「早鞆丸」と「三原丸」は、はじめからダミー・ファンネルを装着した[11]。
就役後は予定通りに大阪山陽線に就航し、1935年(昭和10年)には航路ごと系列会社の摂陽商船に移籍して就航を続けた。こののち、「音戸丸」は1938年(昭和13年)に日清汽船に売却され、次いで1939年(昭和14年)設立の国策会社・東亜海運に現物出資、さらに1940年(昭和15年)には中華民国の船主へと移籍を繰り返したが、終末は定かではない。残る「早鞆丸」と「三原丸」は1942年(昭和17年)に設立の関西汽船に移籍。「三原丸」は瀬戸内海から遠く離れたフィリピン水域で沈没し、特設駆潜艇として行動した「早鞆丸」は戦争を生き残って、1960年(昭和35年)に引退して解体されるまで瀬戸内の近距離航路に就航し続けた。
行動略歴
[編集]船名 | 行動略歴 | |
---|---|---|
日付 | 概要 | |
音戸丸 | 1924年から1939年 | 大阪山陽線 |
1935年 | 摂陽商船に移籍 | |
1938年10月21日 | 日清汽船に移籍[12] | |
1939年8月5日 | 東亜海運に現物出資で移籍[13] | |
1940年4月25日 | 中華輸船に移籍[14]。以後消息不明 | |
早鞆丸 | 1925年から1942年 | 大阪山陽線 |
1942年 | 関西汽船に移籍 | |
1942年12月4日 | 日本海軍に徴傭、特設駆潜艇[15] | |
1945年10月5日 | 除籍・解傭[15] | |
1960年 | 解体[16] | |
三原丸 | 1925年から1942年 | 大阪山陽線 |
1942年 | 関西汽船に移籍 | |
1943年4月 | 大阪商船に用船として復帰。比島運航部の管轄下で運航[17] | |
1943年10月 | マニラ・セブ間航路に就航[17] | |
1944年9月9日あるいは13日 | 9日に北緯09度45分 東経125度30分 / 北緯9.750度 東経125.500度の地点[18]、あるいは13日にスリガオ海峡[19]でアメリカ第38任務部隊機の爆撃により沈没 |
要目一覧
[編集]船名 | 総トン数/ (載貨重量トン数) | 全長/垂線間長 | 型幅 | 型深 | 主機/馬力(最大) | 最大速力 | 船客定員 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
音戸丸 | 688トン (285トン) |
51.82 m Lpp | 8.53 m | 5.56 m | ヴィッカース ディーゼル機関1基1軸 600 馬力 |
12.35 ノット | 二等:89名 三等:273名 |
[20] |
早鞆丸 | 697トン (297トン) |
51.82 m Lpp | 8.74 m | 5.49 m | ヴィッカース ディーゼル機関1基1軸 600 馬力 |
12.32 ノット | 二等:89名 三等:281名 |
[21] |
三原丸 | 697トン (297トン) |
51.82 m Lpp | 8.74 m | 5.49 m | ヴィッカース ディーゼル機関1基1軸 600 馬力 |
12.3 ノット | 二等:89名 三等:281名 |
[22] |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b #商船五十年史 p.122
- ^ #商船五十年史 pp.428-429
- ^ #大時事240320
- ^ a b c d #商船五十年史 p.429
- ^ a b c d #新三菱神戸五十年史 p.146
- ^ #大毎241004
- ^ #商船五十年史 p.430
- ^ #新三菱神戸五十年史 附録p.20
- ^ a b #新三菱神戸五十年史 附録p.21
- ^ a b c #山高 pp.150-151
- ^ #山高 p.150
- ^ #日清汽船 p.230,248
- ^ #日清汽船 p.231
- ^ #松井 p.229
- ^ a b #特設原簿 p.117
- ^ #木俣残存 p.139
- ^ a b #商船八十年史 p.132
- ^ “Chapter VI: 1944” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年7月30日閲覧。
- ^ #戦時遭難史 p.114
- ^ #日本汽船名簿・音戸丸
- ^ #日本汽船名簿・早鞆丸
- ^ #日本汽船名簿・三原丸
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08050075500『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、14頁。
- Ref.C08050075500『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、15頁。
- Ref.C08050075500『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、14頁。
- 戦前期新聞経済記事文庫データベース(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
- 大阪時事新報(1924年3月20日)『モーター船建造増加 燃炭に比較して所得は大』 。
- 大阪毎日新聞(1924年10月4日)『造船界に於る新傾向 内燃機関船の増加』 。
- 神田外茂夫(編)『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船、1934年。
- 浅居誠一(編)『日清汽船株式会社三十年史及追補』日清汽船、1941年。
- 新三菱重工業神戸造船所五十年史編さん委員会(編)『新三菱神戸造船所五十年史』新三菱重工業株式会社神戸造船所、1957年。
- 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6。
- 岡田俊雄(編)『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶、1966年。
- 木俣滋郎『写真と図による 残存帝国艦艇』図書出版社、1972年。
- 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。
- 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。
- 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、6-91頁。
- 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。
- 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7。