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順貴人 (乾隆帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
順貴人鈕祜禄氏

順貴人(じゅんきじん、乾隆12年11月25日1750年1月3日) - 乾隆55年7月末(1790年9月9日))は、乾隆帝の側室。姓は鈕祜禄(ニ゙オフル)氏。満州鑲黄旗の出身。父は湖広総督河道総督雲貴総督浙江巡撫貴州巡撫などを歴任した高官の愛必達(アイビダ)。曽祖父は康熙帝時代の大臣エビルン、大伯叔母は康熙帝の后妃孝昭仁皇后温僖貴妃道光帝の皇后孝穆成皇后は従姪。また、同じく乾隆帝の妃嬪である誠嬪もエビルンの玄孫であり、遠縁にあたる。

生涯

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乾隆31年(1766年)、后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格し、常貴人に封じられる。

乾隆33年(1768年)、順嬪に晋封される。

乾隆41年(1776年)、順妃に晋封される。『清宮医案研究』によると、このころ、順妃は妊娠していたが、流産したとされる。また、乾隆42年(1777年)、乾隆帝の母である皇太后(順妃と同じ鈕祜禄氏の出身)が崩御した影響で、順妃への冊封の儀式は執り行われなかった。

乾隆53年(1788年)、乾隆帝は順妃を順嬪に降格するように内務府に命ずる。同年、順嬪は更に順貴人に降格される。しかしながら、一連の降格の原因は不明である。

乾隆55年7月末(1790年9月9日、順貴人は病没し、清東陵の妃園寝に陪葬された。

登場作品

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テレビドラマ

伝記資料

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