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頼支峰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

頼 支峰(らい しほう、文政6年11月6日1823年12月7日) - 明治22年1889年7月8日))は、幕末から明治時代儒学者[1][2]は復[1][2]は士剛[1][2]通称は復二郎のちに又次郎[2]

略伝

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頼山陽の第2子[1]。山陽が京都に移り住んだ際に妻に迎えた梨影との間に生まれた子になる[1]。弟は頼三樹三郎。10歳のとき、父・山陽が死去[1][2]。その後は長兄の広島藩儒・頼聿庵の元で学ぶ[1]。江戸に遊学し、門田朴斎関藤藤陰(ともに山陽の弟子で備後福山藩儒)らの庇護を受けながら昌平黌(昌平坂学問所)で学ぶ[1]

嘉永6年(1852年)から2年、越後国水原代官所の学問所・温故堂の塾頭に就く[1][3]。その後帰洛し、父・山陽の跡をついで家塾を開いた[1][2]後藤松陰牧百峯に学ぶ[2]。安政6年(1859年)弟・三樹三郎が安政の大獄により斬首される。

明治維新東京奠都の際には天皇に随行して上京し、大学二等教授に任ぜられ昌平学校(旧・昌平黌)で教える[1][2]。明治2年(1869年)明治政府の教育改革に伴い大学少博士となった[1][2]。まもなく辞任して京都へ戻る[1]

晩年は京都で悠々自適な生活を送っていたという[1]。父の書『日本外史』の標注本をつくっている[2]。明治22年死去。67歳没[2]

家系

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尾藤二洲
 
 
 
 
梅月
 
 
 
 
 
 
飯岡義斎
 
 
梅颸
 
 
 
頼聿庵
 
 
 
 
 
 
頼山陽
 
 
頼惟清
 
頼春水
 
 
 
頼支峰
 
 
 
 
 
 
 
梨影
 
 
 
 
 
 
頼三樹三郎
 
 
 
 
 
 
 
頼春風
 
頼景譲
 
頼達堂
 
 
 
 
 
 
 
 
頼小園
 
 
 
 
 
 
頼杏坪
 
頼采真
 
頼正義
 
 
 

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 鷹橋明久「橋本竹下『竹下詩鈔』の序文、跋文について」(PDF)『尾道文学談話会会報』第8号、尾道市立大学芸術文化学部日本文学科、2018年2月、31頁、2024年12月1日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 頼支峰”. コトバンク. 2024年12月1日閲覧。
  3. ^ 頼兄弟,頼支峰について知りたい。”. レファレンス共同データベース. 2024年12月1日閲覧。