顧徽
顧 徽(こ き、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。孫権に仕えた。字は子歎(したん)。揚州呉郡呉県の人[1]。同母兄は顧雍。子は顧裕[2]。
生涯
[編集]若い頃から游学し、弁才があった。孫策が亡くなり、孫権がその勢力を統べることになると、その才能と弁舌を見込まれて招聘され、主簿に任じられた。
ある時、営軍が一人の男を処刑しようとしているのを目にして、話を聞くとその罪は百銭の金を盗んだということだった。顧徽はその処刑を押し留めると、孫権の下に駆けつけて述べた。「いま我らは兵士をよく養い、北方の賊どもの討伐を目指しているところです。この兵士は体格も立派ですし、盗んだ銭も僅かなもの。どうか彼に哀れみを賜らんことを」。孫権はこの陳情を良きこととし、許可した。
北方の曹操が、孫権の勢力範囲である東方の地を欲しているとの情報が入ると、孫権は顧徽に「貴方は私の腹心だが、いま孟徳(曹操の字)が我々に対し異心を抱いていると伝える者があり、しかしこれを探らせるに足る者がいない。貴方が私のために出向いてもらえないか」と述べ、顧徽を輔義都尉に任じ、曹操の下へ向かわせた。曹操から孫権支配地域の情勢について尋ねられた顧徽は、それに穏当に対応しつつ、江東の地は豊かで、山野に潜んでいた賊徒らもその教化を慕って善となり、配下の兵となっていることを述べた。曹操は顧徽を厚遇した後、孫権の下へ帰した。帰国後はまた孫権に、「敵国とは実情を隠すもので、探察するのは困難です。ただ私が密かに得た情報では、曹操は袁譚と争っているところで、他に意を向ける余裕はないようです」と報告した。
のち巴東太守に転任。さらに孫権が重く用いようとしていた矢先、顧徽は死去した。子の顧裕は鎮東将軍の官に上った。
家系図
[編集]顧奉 | 顧雍 | 顧邵 | 顧譚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧承 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧裕(顧穆) | 顧禺 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧済 | 顧栄 | 顧毗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧徽[ft 1] | 顧裕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧向 | 顧悌[ft 2] | 顧彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧礼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧秘 | 顧参[ft 3] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧寿[ft 4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧衆[ft 5] | 顧昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
顧容 | 顧相 | 顧和[ft 6] | 顧淳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||