飯尾為数
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飯尾 為数(いいのお ためかず、?-応仁元年6月11日(1467年7月12日))は、室町時代後期の室町幕府幕臣。飯尾為種の長男[1]。之種の兄。子に為脩(新左衛門尉)・為修(三郎左衛門尉)。下総守と称する。
弟の之種(文明5年(1473年)に51歳で没)の生年より、応永30年(1423年)以前生まれと推定される。嘉吉3年(1443年)12月、父・為種が公人奉行に任じられているにもかかわらず、彼も御前奉行に任ぜられ、「父子相並奉行之条、依器量被仰出歟、眉目之至」と評された[2]。宝徳2年(1450年)12月に政所執事代に任ぜられ[3]、康正元年(1455年)頃に家督を継承、父が没した翌年にあたる長禄2年(1458年)7月には「諸奉行頭」の異名を持つ公人奉行に任じられる[4]が、翌長禄3年(1459年)には「山名相州(教之)之訴訟」により出仕を止められて[5]、家督を弟の之種に譲らされた。その後、寛正4年(1463年)に赦免されて公務に復帰する[6]が、応仁の乱開始直後に東軍側の足利義視・細川勝元らに西軍への内通を疑われて殺害された[7]。また、息子の為脩は翌応仁2年(1468年)11月に細川勝元や日野富子と対立した足利義視が東軍を出奔して西軍に寝返った際に同行している[8]。
脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 74頁。
- ^ 『康富記』嘉吉3年12月13日条
- ^ 『斎藤基恒』宝徳2年12月12日条
- ^ 『経覚私要鈔』長禄2年7月10日条
- ^ 『蔭涼軒日録』長禄3年9月20日条
- ^ 『大乗院寺社雑事記』寛正4年11月19日条
- ^ 『宗賢卿記』応仁元年6月12日条・『大乗院寺社雑事記』応仁元年6月13日条
- ^ 木下昌規「総論 足利義政の権力と生涯」『足利義政』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第5巻〉、2024年5月、46頁。ISBN 978-4-86403-505-7。
参考文献
[編集]- 森幸夫「室町幕府奉行人飯尾為種考」(初出:『国史学』210号(2013年)/所収:森『中世の武家官僚と奉行人』(同成社、2016年) ISBN 978-4-88621-719-6)
- 森幸夫「『飯尾宅御成記』における奉行人家の様相」『中世の武家官僚と奉行人』(同成社、2016年) ISBN 978-4-88621-719-6