飯能松竹
飯能松竹 Hanno Shochiku | |
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情報 | |
正式名称 | 飯能松竹 |
旧名称 | 春日館 |
完成 | 1923年 |
開館 | 1923年 |
閉館 | 1991年 |
用途 | 映画上映 |
運営 | 飯能興業株式会社 |
所在地 |
〒357 埼玉県飯能市仲町16-8 (現在の大川学園高等学校の位置[1]) |
最寄駅 | 西武池袋線飯能駅 |
特記事項 |
略歴 1923年:「春日館」として開業 終戦後:「飯能松竹」に改称 1991年:閉館 |
飯能松竹(はんのうしょうちく)は、かつて埼玉県飯能市仲町にあった映画館。飯能興業株式会社が経営していた[2]。飯能松竹映画劇場(はんのうしょうちくえいがげきじょう)という表記も見られる[3][4][5][6]。
歴史・概要
[編集]1923年(大正12年)に活動常設館「春日館」として開館した[7][8][9][10][11]。館名は土地の提供者「奈良氏」に由来し[12][8][10]、付近の通りも「春日通り」と呼ばれるようになった[12][10][13]。活動弁士がセリフをしゃべり、楽団が演奏をする活動写真から、昭和初期にトーキーに変わった[12]。
戦後、館名を「飯能松竹」に改名した[9][10]。1948年(昭和23年)5月4日、飯能文化協会により募集された新民謡の入選歌発表が行われた[5]。ストリップショーの実演や成人映画『極秘女拷問』の上映を行っていたことが1968年(昭和43年)に撮影された写真から窺える[4]。飯能市出身の声優・かわむら拓央は小学時代に『風の谷のナウシカ』[1](宮崎駿監督)と『死霊のはらわた』[14](サム・ライミ監督)を観た思い出を自身のブログで語っている。
飯能市内唯一の映画館であったが、1991年(平成3年)に経営者が早逝したため閉館した[9][10]。現在、跡地には大川学園高等学校(2005年開校)が立地している[1]。
飯能地方には、1916年(大正5年)に開館した映画・芝居の常設館「飯能座」、原市場の「原市場館」といった映画館が存在していた[15]。1957年(昭和32年)及び1963年(昭和38年)の時点では、飯能市内の映画館は、当館と「飯能日活」(飯能日活映画劇場)の2館が存在していた[6][3]。1983年(昭和58年)の時点では、当館が飯能市内で唯一の映画館となっていた[16]。
その他
[編集]埼玉県飯能市を舞台にしている漫画「ヤマノススメ」のOVA化作品『ヤマノススメ おもいでプレゼント』の前編である「Present1 夏 ここなの8/31」で、飯能松竹が題材にされているシーンがある。
出典
[編集]- ^ a b c “いつもの病”. かわむら拓央の「だめログ」 (2013年11月26日). 2017年3月24日閲覧。
- ^ 飯能青年会議所編『ビジネス・アラカルト』飯能青年会議所、1985年、58頁(飯能市立図書館所蔵)
- ^ a b 『飯能市商工名鑑 1963年版』飯能市役所商工観光課、飯能商工会議所編集発行、1963年、61頁(飯能市立図書館所蔵)
- ^ a b 坂口和子、地域文化研究学会編『飯能市の昭和史』千秋社、1994年、154頁
- ^ a b 飯能市郷土館『飯能昭和史年表』飯能市郷土館、1994年、28頁
- ^ a b 「昭和32年の映画館(埼玉県ー108館)」中原行夫の部屋、2016年5月10日時点のアーカイブ
- ^ 飯能市史編集委員会編『飯能市史 年表』飯能市、1982年、91頁
- ^ a b 赤田喜美男編『写真集明治大正昭和飯能』国書刊行会、1985年、30頁
- ^ a b c 坂口和子、地域文化研究学会編『飯能市の昭和史』千秋社、1994年、24頁
- ^ a b c d e 小川久雄(文)、児嶋邦三(絵)『飯能道ものがたり』文游社、1996年、20頁
- ^ 吉田靖男『飯能の歴史』はんのう文庫、2004年、133頁
- ^ a b c 小松崎甲子雄『飯能の明治百年』文化新聞社、1968年、122-123頁
- ^ 浅見徳男『埼玉ふるさと散歩 〈飯能市・名栗村〉』さきたま出版会、1990年、15頁
- ^ “ハッキリ見えない方が良い事もある”. かわむら拓央の「だめログ」 (2008年8月3日). 2017年3月24日閲覧。
- ^ 赤田喜美男編『写真集明治大正昭和飯能』国書刊行会、1985年、97頁
- ^ 飯能青年会議所広報委員会編『飯能なんでも大全集』飯能青年会議所広報委員会、1983年、139頁