香山末子
香山 末子 (かやま すえこ) | |
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誕生 |
金 末壬 1922年1月27日 日本統治下朝鮮 慶尚南道信陽郡晋城面温水里 |
死没 |
1996年5月4日(74歳没) 日本 群馬県吾妻郡草津町 (国立療養所栗生楽泉園) |
職業 | 詩人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 韓国 |
活動期間 | 1983年 - 1995年 |
主題 | ハンセン病、大韓民国、家族、他 |
代表作 |
『青いめがね』(1995年) 『エプロンのうた』(2002年、遺稿集) |
デビュー作 | 『草津アリラン』(1983年) |
配偶者 | あり |
子供 | 2人 |
所属 | 栗生詩話会 |
影響を受けたもの
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香山 末子(かやま すえこ、1922年〈大正11年〉1月27日 - 1996年〈平成8年〉5月4日[1])は、在日韓国人の詩人。大韓民国慶尚南道信陽郡晋城面温水里出身[1]。本名は金 末壬(キム マルチャ)[2]。
1941年(昭和16年)に日本にわたり、愛知県豊橋市在住となり、2児をもうけた。1944年(昭和19年)にハンセン病を発病し、翌1945年(昭和20年)12月8日、国立療養所の国立療養所栗生楽泉園(群馬県草津町)に入園した[2]。
楽泉園入園中に失明。50歳代の頃、医師の勧めで詩作を始め、栗生楽泉園内の詩人団体である栗生詩話会に入会した[2]。ここで同会の指導を担当していた詩人の村松武司と出逢い、村松に師事して詩を書き続けた。3冊目の詩集『青いめがね』は、祖国への帰郷のつもりで貯めていたわずかな貯金をはたいての出版であった[3]。
1995年(平成7年)、楽泉園に入園以来、生き別れとなっていた長女が楽泉園を訪ね、50年ぶりに再会を果たした。長女もまた12歳でハンセン病を発病し、岡山県の療養所に入所していた。その事実を知った香山は「お前だけは健康でいてほしかった、その姿を想像し、それを支えに生きてきたのに」と泣いたといい[4]、翌1996年(平成8年)に死去。没年齢74歳。長女は「再会が死期を早めたかもしれない」と後悔したという[2]。後に長女は母の遺作をまとめ、遺稿集『エプロンのうた』(ISBN 978-4-7744-0319-9)を自費出版した[2]。
香川の詩は、病気に侵された体にわずかに残った触覚で感じる日常や、祖国や家族を想って綴られたものであり、それらは詩人の大岡信により「豊かな情感、独自のスタイルを持つ驚くべき作品[5]」、村松武司の跡を継いで詩話会を指導した詩人の森田進により「稀に見る痛切な美しさに満ちて光っている[6]」と高く評価されている。
著作
[編集]- 『草津アリラン』梨花書房、1983年8月。 NCID BA51951218。
- 『鴬の啼く地獄谷』皓星社、1991年7月。 NCID BA45325373。
- 『青いめがね』皓星社、1995年5月。ISBN 978-4-905980-50-6。
脚注
[編集]- ^ a b 大岡信他 編『ハンセン病文学全集』 7巻、皓星社、2004年2月、564-565頁。ISBN 978-4-7744-0396-0。
- ^ a b c d e “遺作まとめ詩集 ハンセン病で逝った在日1世・香山さん”. 朝日新聞 名古屋朝刊 (朝日新聞社): p. 30. (2002年10月8日) 2016年12月10日閲覧。
- ^ 森田進『詩とハンセン病』土曜美術社出版販売〈「新」詩論・エッセー文庫〉、2003年6月30日、135-143頁。ISBN 978-4-8120-1399-1。
- ^ 村瀬達男 (2015年2月23日). “支局長からの手紙 ハンセン病哀歌”. 毎日新聞 三重版 (毎日新聞社): p. 26
- ^ 朝日新聞 2002, p. 30より引用。
- ^ 森田 2003, p. 142より引用。