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馮習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馮習
成都武侯祠の馮習塑像(中央)
成都武侯祠の馮習塑像(中央)
蜀漢
領軍
出生 生年不詳
荊州南郡(現在の河南省羅山県
死去 章武2年(222年
荊州宜都郡(現在の湖北省宜昌市
拼音 Féng Xí
休元
主君 劉備
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馮 習(ふう しゅう)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての武将。休元荊州南郡の人。

事績

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劉備荊州時代からの配下で、劉備の入蜀にも随行した。

章武元年(221年)、関羽の仇討ちに燃える劉備が討伐の兵を挙げると(夷陵の戦い[1]、馮習は領軍[2]に任じられ、軍の司令官を任される[3]。その緒戦では呉班と共に、呉の李異らの軍を撃ち破った。しかし章武2年(222年)6月[1]陸遜の火計によって蜀軍は大敗を喫し[3]、馮習は潘璋の部下によって斬られた[4]

詳細な経緯は不明だが、楊戯の『季漢輔臣賛』において馮習は「休元(馮習)は敵を軽んじたため、国家に損失をもたらし、死に至った」と評され、敗戦の責を咎められている。

三国志演義

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羅貫中の小説『三国志演義』では第81回で、夷陵の戦いに向かう蜀軍の副将として登場。第82回では呉班配下の将として孫桓軍と対峙。孫桓に夜襲を仕掛け、また朱然軍の救援に備え、関興張苞を伏兵として配置するよう進言する。この作戦により孫桓を撃破し、また朱然は来訪しなかったものの、その配下の崔禹の捕縛に成功した。

第83回からは劉備配下の先鋒隊を担う。気候が猛暑となり、水の補給にも苦しんでいることを馮習が訴えると、劉備は軍勢を川沿いの木陰へと移動させた。

そのこともあり第84回で蜀軍本隊は、陸遜の火計を受けて大敗。火の手と呉軍の攻撃を逃れた馮習は、彝陵城の包囲に当たっていた呉班・張南に危機を告げる。そして張南と共に劉備救援に向かうがその最中、前後から敵の攻撃を受け、乱戦の中で敗死する。『季漢輔臣賛』のように敗戦の責を咎められることはなく、作中の詩では「馮習忠無二(馮習の忠は二つと無し)」と称えられる。

出典

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脚注

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  1. ^ a b 『三国志』蜀書 先主伝
  2. ^ 『三国志』呉書 潘璋伝では護軍とする。
  3. ^ a b 『三国志』呉書 陸遜伝
  4. ^ 『三国志』潘璋伝