高円寺平和劇場
高円寺平和劇場 Koenji Heiwa Theatre | |
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情報 | |
通称 |
高円寺平和 高円寺平和座 高円寺日活平和 |
正式名称 | 高円寺平和劇場 |
完成 | 1946年 |
開館 | 1946年1月 |
閉館 | 1989年3月7日 |
収容人員 | 223人 |
用途 | 映画上映 |
運営 | 東亜興行株式会社 |
所在地 |
〒166-0002 東京都杉並区高円寺北三丁目20番23号 |
最寄駅 | 高円寺駅 |
高円寺平和劇場(こうえんじへいわげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][注 1][12]。1946年(昭和21年)1月、東京都杉並区高円寺に開館した[1][2]。東亜興行が新宿・歌舞伎町に進出した3年後の1954年(昭和29年)9月、同社に経営権が移る[9][13]。高円寺平和(こうえんじへいわ)、高円寺平和座(こうえんじへいわざ)[注 1]、高円寺日活平和(こうえんじにっかつへいわ)[7]と表記されることもあった。
沿革
[編集]- 1946年1月 - 高円寺に開館[1][2]
- 1954年9月 - 東亜興行に経営が移る[9]
- 1989年3月7日 - 閉館
- 2003年1月 - 跡地に杉並区営の「高円寺北自転車駐車場」竣工[14][15]
データ
[編集]- 所在地 : 東京都杉並区高円寺七丁目999番地[12]
- 経営 :
- 三亜興行 (1946年 - 1954年)
- 東亜興行株式会社 (1954年 - 1989年)
- 構造 : 木造一階建[1][2]
- 観客定員数 : 550名(1950年 - 1951年[1])⇒ 446名(1955年[2]) ⇒ 223名(1988年[8])
概要
[編集]1946年(昭和21年)1月、国鉄(現在のJR東日本)高円寺駅北口、庚申通りの杉並区高円寺七丁目999番地(現在の高円寺北三丁目20番23号)に開館した[1][2][12][14]。開館当時の同館は、セントラル映画社(CMPE, セントラル・モーション・ピクチュア・エキスチェンジとも)が独占的に配給するアメリカ映画を一番館として封切上映する、アメリカ映画専門館であった[1]。経営は三亜興行、支配人は米山信一、観客定員数は550名であった[1]。セントラル映画社は1951年(昭和26年)12月27日には解体された[16]。1949年(昭和24年)8月、阿佐ケ谷駅北口に「阿佐谷オデヲン座」を開館して創業した高橋康友の東亜興行株式会社が、1954年(昭和29年)9月に経営権を得ており、2年前に開館した「下北沢オデヲン座」についで6館目に開業した映画館である[13][9]。同月、吉祥寺駅近くに「吉祥寺オデヲン座」をつづけて開館している[9]。同館はオデヲン系列に入り、外国映画(洋画)の三番館、つまりロードショーを終えた作品をその2週後に上映する劇場になった。同館の支配人はひきつづき米山信一、観客定員数は446名であった[2]。
同館が建つ前、とくに第二次世界大戦前の昭和初年には高円寺館(杉並町高円寺937番地、のちの杉並区高円寺町七丁目937番地)のみであったが[17][18]、戦時中の1942年(昭和17年)までには、高円寺館のほか、美須鐄(チネチッタ創業者)が経営する高円寺映画劇場(高円寺町七丁目950番地)、坂本暉吉が経営する興風映画劇場(高円寺町一丁目459番地)の合計3館が存在した[19][20]。戦後は、高円寺駅の周辺には「高円寺平和劇場」のほかに戦前からの高円寺映画劇場(馬橋二丁目230番地、現在の高円寺南三丁目23番)があり[注 2]、1954年(昭和29年)までには、高円寺エトアール劇場(高円寺七丁目961番地、1953年開館、のちの高円寺東映、現在の高円寺南三丁目47番8号)、杉並映画劇場(高円寺三丁目175番地)の合計4館が存在した[12]。1960年(昭和35年)までには、エトワール劇場の脇にムービー山小屋(現在の高円寺南三丁目47番1号)が加わり、「高円寺平和劇場」のほかは高円寺映画劇場、高円寺エトアール劇場、杉並映画劇場の合計5館になった[注 1]。1958年(昭和33年)には、高円寺エトアール劇場が高円寺東映と改称している[3]。杉並映画劇場は1960年(昭和35年)前後、高円寺映画劇場は1970年(昭和45年)前後にそれぞれ閉館している[3][4][5]。
1981年(昭和56年)に高円寺東映・ムービー山小屋が閉館して跡地は西友高円寺店になり、高円寺の映画館は、日活ロマンポルノの封切館になっていた同館だけが残った[6][8]。日活ロマンポルノは1988年(昭和63年)6月末をもって打ち切りになり、同館は、1989年(平成元年)3月7日に閉館した[8]。跡地は、2001年(平成13年)、同年度の杉並区の補正予算で区に買収され、2003年(平成15年)1月、「高円寺北自転車駐車場」となり現在に至る[15]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c 1960年の映画館(関東地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[11]。
- ^ 1950年の映画館(関東地方)「消えた映画館の記憶」を参照した[21]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 年鑑[1951], p.330.
- ^ a b c d e f g 総覧[1955], p.13.
- ^ a b c 便覧[1959], p.19.
- ^ a b 便覧[1969], p.50.
- ^ a b 便覧[1970], p.48.
- ^ a b 名簿[1979], p.42.
- ^ a b 年鑑[1983], p.25.
- ^ a b c d 名簿[1988], p.35, 45, 73.
- ^ a b c d e 会社概要、東亜興行、2013年7月31日閲覧。
- ^ 高円寺、昭和毎日、毎日新聞、2013年7月30日閲覧。
- ^ 『映画年鑑 戦後編 別冊 全国映画館録 1960』日本図書センター、1999年。
- ^ a b c d 東京航空写真地図 第3集、国立国会図書館、2013年7月31日閲覧。
- ^ a b キネ旬[2010], p.52, 56-59.
- ^ a b c 高円寺北自転車駐車場、杉並区、2013年7月31日閲覧。
- ^ a b 平成13年度杉並区一般会計等補正予算 (PDF) 、杉並区、2013年7月31日閲覧。
- ^ 年鑑[1953], p.127.
- ^ 総覧[1930], p.555.
- ^ 昭和7年の映画館 東京府下 146館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』)、2013年7月31日閲覧。
- ^ 年鑑[1942], p.10-34.
- ^ 年鑑[1943], p.454.
- ^ 『映画年鑑 1950年』時事通信社、1949年。
参考文献
[編集]- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1953』、時事通信社、1953年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画便覧 1959』、時事通信社、1959年
- 『映画便覧 1969』、時事通信社、1969年
- 『映画便覧 1970』、時事通信社、1970年
- 『映画年鑑 1979 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1979年
- 『映画年鑑 1983』、時事映画通信社、1983年
- 『映画年鑑 1988 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1988年
- 『映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東篇』、キネマ旬報社、2010年3月26日 ISBN 4873763258