月山日和城
月山日和城 (宮崎県) | |
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肝付兼重が築城したと伝わる月山日和城後に経つ高城歴史資料館 | |
別名 | 兼重本城、高城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 肝付兼重 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 肝付兼重、畠山直顕、畠山氏、和田氏、島津氏、伊東氏、北郷忠相、北郷氏、伊集院忠棟 |
廃城年 | 1615年(元和元年) |
遺構 | なし |
指定文化財 | なし |
再建造物 |
なし ※高城郷土資料館 |
位置 | 北緯31度48分05.751秒 東経131度08分07.310秒 / 北緯31.80159750度 東経131.13536389度座標: 北緯31度48分05.751秒 東経131度08分07.310秒 / 北緯31.80159750度 東経131.13536389度 |
地図 |
月山日和城(がっさんひわじょう)は、宮崎県都城市高城町にあった日本の城(山城)[1]。別名兼重本城・高城。
概要
[編集]月山日和城は別名を「高城」ともいう。日向国内には他に新納院・高城と、穆佐院・高城(別称を穆佐城)があり、「日向三高城」と呼ばれた。
この城は、今から650余年前[いつ?]、肝付兼重が築いたもので、「三俣院兼重本城」が始まりといわれている。「三俣院兼重本城」の場所には諸説あり、高城町石山の「三俣城」を肝付兼重の城とする説もある。
兼重は、この城に、南朝方から受けた錦の御旗をひるがえし、北朝方の畠山軍と戦い、孤軍奮闘したが、延元4年(1339年)8月、力尽きて落城、兼重は高山(こうやま)へ退いた。
その後は、日向国守護職の畠山直顕のものとなり、その頃に高城(たかじょう)、および月山日和城とも称されるようになった。畠山氏のあと和田氏の居城となり、さらに島津氏の領となったが、明応4年(1495年)伊東氏との飫肥・三俣の交換によって、伊東氏の物となった。
都城の北郷忠相は、47年の長い間をかけ、伊東氏を追い払い、ここを居城とした。戦国時代の終わりには、伊集院氏の領有となり、庄内の乱では、この城下で激戦が繰り返された。
乱後は、また北郷氏の物となったが、元和元年(1615年)一国一城令によって、戦火を重ねたこの城も廃城となった。
南北朝の争乱から、戦国時代を経て、庄内の乱まで約260年間、三俣千町といわれた美田の要地として戦火に包まれた歴史を持つ、全国にも例の少ない山城である。
現在の城の構えは、戦国時代に完成されたものとされ、後方のシラス台地から突出した要害の地に、空堀に仕切られた池の城・内の城・真城・本城・中の城・樽原・取添の7つの曲輪からなり、約4ヘクタールの広さを持つ。
伊東八外城の時代には、ここを中心本城として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、小山城、野々美谷城、下ノ城を支城として、扇形の雄大な構えであった。
昭和10年(1935年)の陸軍特別大演習には、野外統監部となり、昭和天皇がここに立ち、演習をご覧になった。
昭和14年(1939年)、中川一政、尾崎士郎らとともに宮崎県に招待された井伏鱒二は、ここ月山日和城を案内され「月山日和城」という作品を残した。
月山日和城を舞台にした作品
[編集]井伏鱒二 「月山日和城」
現在の復元天守
[編集]現在は「池の城」の空堀部分に高城郷土資料館が建てられている。
参考資料
[編集]参考文献
[編集]- 高城町 むらおこし実行委員会 日和城 看板